【臨済録】やさしい現代語訳・解説 上堂2

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、自我はええかっこしいの馬鹿な生き物。

 

①読み下し文

座主(ざす)有り、問う、三乗十二分教(さんじょうじゅうにぶんぎょう)は、豈(あ)に是れ仏性を明かすにあらざらんや。

師云く、荒草曾(こうそうか)つて鋤(す)かず。

主云く、仏豈に人を賺(すか)さんや。

師云く、仏什麼(いずれ)の処にか在る。

主無語(むご)。

師云く、常侍の前に対して、老僧を瞞(まん)ぜんと擬(ほっ)す。速退(しっつい)、速退。他の別人の請問(しんもん)を妨(さまた)ぐ。

復(ま)た云(いわ)く、此の日の法筵(ほうえん)、一大事の為(ため)の故(ゆえ)なり。更(さら)に問話(もんな)の者有りや。速(すみや)かに問(とい)を致(いた)し来(きた)れ。你纔(なんじわずか)かに口を開かば、早(すで)に勿交渉(もっきょうしょう)。

何を以(も)ってか此(かく)の如くなる。見ずや、釈尊云く、法は文字を離る、因にも属(ぞく)せず縁にも在らざるが故なりと。

你が信不及(しんふぎゅう)なるが為に、所以(ゆえ)に今日葛藤(かっとう)す。恐らくは常侍と諸官員とを滞(たい)して、他(か)の仏性を昧(くら)まさん。

如(し)かず、且(しばら)く退(しりぞ)かんには。喝一喝して云く、少信根(しょうしんごん)の人、終(つい)に了日(りょうじつ)無けん。久立珍重(きゅうりゅうちんちょう)。

 

②私訳

今度は教家(経典に依拠する仏教の宗派)の人が問うた。「三乗教や十二分教の仏教経典が、仏性をすべて明らかにしているではありませんか」

臨済禅師は言った。「経典では荒草(思考)を取り除くことはできない」

教家の人「仏がどうして人を騙(だま)すことがあろうか」

臨済禅師「その仏とやらはどこにある?」

教家の人は答えられなかった。

臨済禅師「常侍の前で、ワシを騙すつもりか。さっさと退け! 他の者の質問の邪魔になる」

また、こうも言われた。

「今日のこの説法の場は、仏法の一大事を明らかにするために、設けられたものだ。さらに問う者はあるか。速(すみ)やかに問え。ただ、お前が少しでも口を開けば、それはもう法とは関係がない。どうしてそうなのか。

釈尊は言われた。仏法(即今)は文字では表現できない。因果を伴う時間に属さないためである。お前たちがありのままを信じないがゆえに、葛(くず)や藤(ふじ)の蔓(つる)が樹木に絡(から)みつくように、物事をもつれさせて複雑化してしまうのだ。

王常侍知事と官員の方々が戸惑い、仏法が余計にわからなくなってしまうことを恐れる。そろそろ引きあげたほうがよかろう」

そこで臨済禅師は一喝し、最後に言われた。

「ありのままを信じ切れぬ者は、また悟れずに日が暮れる。立ちっぱなしでご苦労だった」

 

現場検証及び解説

 

座主(ざす)というのは、「教家の人」のことで、「禅家に対して経典を重んじる仏教の宗派」です。臨済先生が一番嫌いそうな方々です(笑)。

案の定、けんもほろろにやっつけられて、黙ってしまいました。「主無語」とありますが、前項でも出てきたように「擬議(ぎぎ)」したのかもしれません。擬議というのは「思案すること」です。思案しても、答えは出てきませんでした。なにしろ、教家の人は仏教学者ですから、仏教用語は知っていますが、仏性そのものを直(じか)に知ったわけではありません。そのため、「仏のありか」を答えることはできなかったのです。

私なりに「仏はどこにあるのか」考えてみました。おっと、考え(思考)は禁物です(笑)。なんにも考えず、臨済先生の前にいるつもりで言ってみましょう。

ゴリラのドラミングのように胸を両こぶしで叩きながら、「ここじゃ! ここじゃ!」

ここに衒(てら)いがあったら、たぶんダメでしょうね。素直にこれが出てきたら、ひょっとしたら臨済先生の「良し!」がもらえたかもしれません。

 

釈尊は言われた。仏法(即今)は文字では表現できない。因果を伴う時間に属さないためである。お前たちがありのままを信じないがゆえに、葛(くず)や藤(ふじ)の蔓(つる)が樹木に絡(から)みつくように、物事をもつれさせて複雑化してしまうのだ。

即今とは無時空間の点です。時空間が二次元の面としたら、即今はそこに垂直に立つ軸のようなものです。ファーストフードの飲み物の、フタとストローのような形をイメージしてください。言葉は時空間で成り立つものです。「は」だけでは、聞く人は何のことかわかりません。しかし、「は・ら・へっ・た」となれば意味を持つわけです。聞いた人は、行動を起こすかもしれません。時空間の出来事です。

だから、無時空間の即今を、時空間に属する言葉では表せないのです。臨済先生の「喝!」は無時空間の即今を表現しようとした、苦肉の策なのです。

また、「無時空間などと非科学的な!」とお腹立ちの方もおいででしょう。私も全然科学通ではなく、聞きかじりでお伝えするのですが、ニュートンが仮定した絶対時間、絶対空間は、アインシュタインの相対性理論や量子力学の誕生により、否定されています。

「時間はどこで生まれるのか」(橋元淳一郎 集英社新書)によると、「当たり前にあるように思えるけど、ミクロの次元では発見できないもの」の代表として、3つの例が挙げられています。

まず、ひとつが「色」です。色は「眼を通じて網膜に入ってきた光を、視細胞が視神経に伝えたもの」です。ですから、人間が見る色とトンボが見る色は違います。もちろん人間の見る色の方が多彩です。人間の中でも色覚異常により、普通の状態と違った色に見えることがあります。色とは光と視神経など認識器官との関係で、仮に成り立っているものです。

同じく、「温度」もそうです。熱い(暑い)、冷たい(寒い)は、マクロの次元ではありありと感じられ、人にとって大変重要な要素です。そのため、温度計なるものもできました。しかしミクロの次元では、原子がたくさん皮膚にぶつかって人が感じているものです。温度というものがあるわけではないのです。温度は人が仮に設定した尺度にすぎないのです。

そして、「時間」もそうなのだ、というのが上記の本の主張なのです。その説明をここでやれと言われても、私には無理です(笑)。興味ある方は是非とも本を読んでください。わかりやすく、大変面白い本です。説明をはしょって結論だけ述べます。「時間はミクロの次元では発見できません」ありありとあるように思えるけれど実はない、のです。

覚醒体験をすると、そのあたりのことが実感できるのかもしれませんね。

 

「信不及」は「臨済録」に何度も出てくる重要な言葉です。と同時に難解でもあります。これをうっかり「信心が不足している」とか「信仰が不徹底だ」とか訳してしまうと、もうどうしようもなく「臨済録」を誤解してしまうことになります。

前にその「信不及」について、「盲信ではないんだよ。むしろ、世間の常識を疑うことが大切。瞑想修行をして、ひとつひとつ直(じか)に確かめていく作業のなかで、盲信を解き明かし、真実を確信するにいたるのだ」というような話をしたと思います。

たとえば、仏教理論の根本である「無我」ですが、私は修行の初期段階ではどうにも納得がいきませんでした。「だって、我はあるに決まってるだろう。こんなにありありとあるじゃないか。世間もそう言っている」と思っていました。しかし、瞑想修行を続けていくと、「ああ、自分って思ってるほど、確かなものじゃないな」というふうになり、さらに「あれ? 自分を強化するために、オレはいろいろやってるぞ!」ということに気がつきました。

思考を常に観察していると、自分で自分のことを主張している内言(ないげん)に気がつきました。「なんでこんな内言ばかり出てくるのだろう?」そこで思い当たりました。そうか、これは自己イメージを強化しているのだ、と。

それはあたかも平面に盛り土しているような行為でした。何も無い平な所に、自分で自分で主張したり、ほめたり、認めたりして、そこに自分を盛り上げてやる・・・自画自賛と言ったらわかりやすいかな。

もし、自分(自我)が自明のものであれば、このようなケアは無用なはずです。内言によって強化し続けなければならないような、あやふやなもの、変化を伴うものは在るとは言えないのです。

人は、内言によって自我強化していると言いましたが、もっと効果的な自我強化があります。それは他人からの称賛、社会的地位です。Twitterで💗(いいね)をたくさんもらうと嬉しいですよね。逆に少ないと寂しい。なぜでしょうか。自我がそれを必要としているからです。💗が多いと気分が良い、💗が少ないと気分が悪い、自我は単純なのです。認証欲求とか自己肯定感が、よく取りざたされていますが、これらはすべて自我の存在が前提です。

このように考えていくと、私たちが世間の中で、いかに自我を大事にしているかがわかってきます。自然に、無意識のうちに自我をケアしてしまっています。ですから、仏教が目指す自我解体に取り組む前に、こうした自我ケアの実態をハッキリと看(み)て欲しいのです。

そうでないと、瞑想修行をしていくらか自我解体に成功したとしても、生活の中で無意識に自我を復活させ、元の木阿弥(もくあみ)になってしまいます。

 

私たちの根本は無我です。それを平面にたとえました。そこに盛り土をするのが、自我をケアすることだと言いました。もうひとつ、自我をケアする方法があります。それは、他人の悪口、社会批判、痛罵(つうば)です。人はなぜか他人の悪口が大好きです。はしたないと思いつつ、ついつい調子に乗ってやってしまいます。私は長い間、私だけそうなのだ、と思っていました。私が下品なので、そういうことを常にしてしまうのだ、と密かに恥じていました。お釈迦さまも確か禁じておられましすね。

だけど、あるときから「ああ、人は他人の悪口が大好きなのだ」と確信しました。臨床心理学者の河合隼雄先生も「人間はよっぽど他人の悪口が好きらしい・・・」とおっしゃっていました。また、古今亭志ん朝のまくらに「他人の悪口なんぞ言いながらぁ、酒ぇ飲んでおりますと、大変気分がいいですな。ほめながら飲むと悪酔いしちゃう・・・」というのもありました。

また、テレビのワイドショーというのも、あれはどう見ても「他人の悪口をみんなで言う」というコンセプトの元に作られていますね。芸能人、有名人が不祥事を起こすと、「これでもかっ!これでもかっ!」というくらい叩きまくります。

「どうしてこういうことをするんでしょうね、この方は・・・」と司会者は憂い顔でいいます。しかし、よく考えたら私たちだってそれくらいの破廉恥なことをやりかねない。まだ、やってないだけで・・・。それをあたかも「私は清廉潔白だが、世の中には酷(ひど)い人がいる」という話をあらゆる角度から長々とやる。悪趣味です。

でも、それで視聴率が取れるのですから、喜んで観ている方が日本中にたくさんおられるわけで・・・。

このような人間の性を見るにつけ、これもみな自我強化の方法なのだ、と思いました。平面にたとえれば、盛り土の反対で、「溝掘り」です。盛って山(自我)を高くするのではなく、溝を掘って山(自我)を現出させるのです。この方法も自我強化の効果的な方法です。人が他人の悪口を言うのが大好きなのは、自我強化に役立つから、自我がそれを好むからです。

以上のようなことを瞑想修行を行う中で、直に知ってほしいのです。私の言葉を鵜吞みにするのではなく、自我の有様をじっくり観察して、自我のいやらしさをたっぷり味わい、絶望してください。そうすれば、嫌でも自我強化をやらなくなります。いえ、しばらくは習慣になっていますから、少しはやるかもしれませんが、とことん懲(こ)りたら、人間やらなくなるものです。逆に言えば、懲りるほど自我のいやらしさを認識しないと、自我解体は始まらないのかもしれません。

そして、自我解体が少しずつ進むと、精神的に楽になってきます。たぶん、自我のケアの労力が省かれるからだと思います。

自我が少なくなると、困ったことにならないかと思う方もいらっしゃいますが、全然困りません。自我の代わりに、何か別のものが活動することになります。おそらくそれが「真我=仏性=本来の面目」です。

自由な時空間に自由なものが活動する、そんな感じです。自我はむしろ面倒で、窮屈で、ええかっこしいの馬鹿な生き物です。こんな生き物を飼っておく必然性は全くありません。

 

さて、夢中で語っているうちに、長くなってしまいました。すみません。また、近いうちにお会いしましょう。

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2023 All Rights Reserved.