瞑想知恵袋 その2【今という不思議】

 

 

瞑想が大好きな方、瞑想は苦手という方、でもスピリチュアルな話題は大好きという方、こんにちは。

日々の瞑想修行者、藤原です。

今回も、しつこく今について語ります。

 

「その話、本にして!」 とその少女は言った。

ある少女と次のような会話をしました。まず、その会話から聞いていただきましょう。少女は仮にAさんとしておきましょう。

私「あのな、今、あなたは今にあるでしょう?」

A「・・・んん、まあ、そうだけど」

私「じゃあ、この私は今にあると思う?」

A「・・・今にあるんじゃない」

私「あなたの数年前はどうだった?」

A「今にいたと思う」

私「あなたの数年後はどうだ?」

A「今にいると思う」

私「ここから、少し飛躍するよ。江戸時代の誰かさんはどう?」

A「やっぱり、今にいたんじゃないの」

私「確かに?」

A「確かに」

私「これから100年後の、アメリカ人はどう?」

A「やっぱり、今にいると思う」

私「それが、なぜ、あなたにわかるの?」

A「あ、ホントだ、なんでわかるんだろう。すごい! この話、本にして!」

 

本当は意識が先なのではないか

残念ながら、書籍化はできていませんが、こうしてブログで発表することができました。皆さんは、この話をどう感じられたでしょう。気になるところです。この少女のように「すごい!」と感じられたか、あるいは、「そんな当たり前のことが、どうしてすごいんだ?」と感じられたのか・・・。

この話をもう少し補足すると、「肉体が違っていても、意識は今という性質を必ず帯びている。そのことの不思議」を言いたかったのです。逆に言うと、肉体が違っていたら、意識のあり方も様々であってよいような気がしたのです。

ところが、植物、昆虫、動物など、生きとし生けるものすべてが、押しなべて「今」を共有している、このことに、初めて気づき、なぜか驚嘆したのです。

ザックリ言えば、「ああ、私たちはみんな同じものなんだ!」と発見したのです。

「今」という何かが、私たちの本質で、それは今も昔も変わらない。つまり、「今」は永遠であり普遍的な何かである、と思い当たりました。ですから、私たちは形こそ違えど、「今」という命そのものなのだ、と。

それまで私は、先に肉体が生まれ、そこに意識が芽生えるのだと思っていました。意識は肉体に付随(ふずい)したものだと考えていました。この考えだと、肉体が滅びると共に意識も滅びることになります。それはなんだか恐ろしい気がしました。

ところが、それが逆だとしたらどうでしょうか? 永遠なる意識が先にあり、意識が肉体を創りだしたと考えると。そうすれば、「今」という命が、永遠で普遍的なものであることと、整合性がでてくるのではないか。

 

科学からの反論

予想される反論は、「科学はソレを発見していない」でしょう。科学が発見していないものは、なんでも「ない」ことにされてしまう世の中です。

でも、それに反論するとすれば、「ソレは眼耳鼻舌身意では捉(とら)えられない何かなんですよ」ということです。また、こうも言えます。「眼は直接に眼を見ることはできません。それと同じように、私たちの本当の姿は直接知ることはできないのです」と。

科学は「命のはたらき」は解明しつつありますが、「命そのもの」が何なのか、どうやらわからないようです。突き詰めていくと、命は神秘の様相を呈してきます。地球ができたての頃、物質が何かの拍子に生命化した、というのが現代科学のコンセプトですが、そもそもそのコンセプト自体が間違っている可能性はあると思います。

これだけ科学が発達しても、生命そのものを物質から創りだした業績はありません。

「生命は最初からあった」と考えた方が理にかなっているように、私には思えます。

 

だとしたら死とはなにか?

肉体が生まれ、そして肉体は死にます。しかし、その肉体を生かしめていた、「生命エネルギーのようなもの」は死にません。なぜなら、その「生命エネルギーのようなもの」は生まれたことがないからです。ヒンズー教の覚者、ニサルガダッタ・マハラジが言うように「生まれたものだけが死ぬのだ」ということです。

波がやがて海に吞み込まれていくように、氷が水に還っていくように、私たちの本質も還っていくのです。そして、また別の形を得てこの世に戻ってくるのかもしれません。そして、それは決して個人として戻ってくるのではない。元々個人は幻想に過ぎません。

以上、私の直観に基づいた考えを述べてみました。「根拠は?」と問われたら、「根拠はないけど、確信はある」と答えましょう。まだ、誰も問わないけど(笑)。

ラマナ・マハルシは「思考は人間の能力のごく一部です」と言いました。そのごく一部の能力を、すべてであるが如くに、社会を構築したり、人生を決定する際に最重要視するのは、むしろ危険ではないでしょうか。

科学の重要な発見には、先に直観があります。直観を他人に説明するために、思考を駆使し論理を組み立てるのです。

「理屈はわかるんだけど、なんかアイツの言うこと、気に食わねえんだよなあ」とか「うまい話だけど、なんかうさんくさい」とか「魅力的な男だし、人気もある、だけど信用できない」とか・・・。

論理も大事だけど、直観も大事です。瞑想修行して、直観を鍛えましょう。

 

なんだか、柄にもなく、大風呂敷を広げてしまったような気がします。でも、噓は言っていないつもりなんです。

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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