他人の悪口はなぜ楽しいか?

 

こんにちは!

前回は、「信仰は必要か?」などという、大それたことを取り上げてしまって、結局何も言いえなかったような気がしています。やはり、私には荷が重すぎました。不明な点、言葉足らずの点がありましたら、ご指摘いただければ幸いです。しかし、まあ、ぜひとも皆さんに、このことをお知らせしなければ、という思いでお話ししております。拙く、支離滅裂なおしゃべりかもしれませんが、しばらくの間お付き合いいただければうれしいです。

 

どうやらお釈迦さまは言葉に厳しかったらしい

今回はグッと身近な話題。悪口です。お釈迦さまは言葉に厳しい方だったようです。教えのなかに、言葉に関するいさめがずいぶんあります。八正道に正語があります。うそ、無駄なおしゃべり、他人を傷つけることは言わない、ということ。無駄なおしゃべり=世話ばなしすらダメなんですね。在家も守るべきとされる五戒にも、不妄語戒(うそをつかない)が入っています。さらに、五戒をバージョンアップした十善戒には不妄語戒の他に、不綺語戒(心にもないきれいごとをいわない)、不両舌戒(二枚舌を使わない)、そして今回のテーマである不悪口戒があります。なんと、十のうち四つまでが口に関するいさめなんですね。

瞑想修行は、ザックリいえば、心なかで止まないおしゃべりを止めることを目的としている、といってもいいのではないかと思います。正確にいえば、止めることはできないのですが、究極の目標は思考が止まった状態を良しとするわけです。ですので、私も単純にそれを目指しました。しかし、皆さんも挑戦してみるとわかりますが、思考をコントロールすることはできません。次から次へと妄想が湧いてきて、どうにもならないのです。これではいかん、と本気で思いましたので、どうしたらこのことが解決するかと私なりに考えました。そこで、先に示したお釈迦さまの教えです。どうやら、お釈迦さまは言葉に厳しかったらしい、これらの戒律を守ることによって、思考が減るのかもしれない、そう考えました。不綺語戒は、まあ大丈夫。カミさんの機嫌をとるときに少し使うだけ。不両舌戒は、性格的に出来ないタイプ、下手くそです。不妄語戒については、世間を欺いているという意味でいけないと思ったので、商売上の誤魔化しは極力やめるようにしました。一番困ったのは不悪語戒です。これがなかなかやめられなくて、難儀いたしました。人間関係を悪くするような、ダイレクトな悪口はもちろん言いません。ですが、本人(知人、親戚、有名人)が聞いていないところでの、悪口は結構いっていました。悪口というよりは、私としては、的を得た非難というようなものなのですが、それでも悪口は悪口です。我慢いたしました。苦しかった。言いたくなる自分を抑圧するストレスも厳しかったのですが、倫理的にかなり低いところにいる自分に気づき、そのことにショックを受けました。こんなことでは到底、仏教を修することはできないと思いました。私のような人間には無理なのかなあ、と弱気にもなりました。しかし、瞑想修行を続けながら、人間社会を広く見渡してみたり、今までに聞いたり、読んだりしたことを考え合わせていくうちに、悪口を言わざるを得ない人間の心の構造といったものに、気づいたのです。そのことを、次に申し上げます。

 

エゴの「溝堀り」と「盛り土」

古今亭志ん朝師匠のまくらに、こういうのがありました。「こうやってぇ、酒ぇ飲みながらひとの悪口言っておりますと、ほんとぉに楽しいですな。ほめながら飲んだりするってぇと、悪酔いしちゃう」確かにそうですね。お勤めの方、特に男性の方はよくご存知でしょうが、会社の同僚、上司と飲みに行くと、大抵は会社批判、その場にいない人批判になってしまいます。酒が入っていますから、だんだんエスカレートしてきて、そのうち悪しざまにののしり始めます。そこまで言わなくてもいいんじゃないかというくらい。また、自分のことは棚に上げて、ね。「お前はどうなんだい」なんてことを言うと、ケンカになります。それで、明けて翌朝、昨晩あんなに激昂していたんだから、何かやらかすんじゃないかと思っていたら、普通に挨拶してペコペコしてたりなんかする。要するにストレス解消なんです。上手にやれば問題ない。本人の耳に入るとまずい。そういうもんです。心理学者の河合隼雄先生も言っておられました。「人間は相当そういうこと(悪口)が好き」だって。私がお世話になっていた精神科医のM先生も「みんなやってる」とおっしゃっておられましたからね。週刊誌やワイドショーだって、有名人の悪口が多いですね。司会者なんぞ、あたかも私は清廉潔白な良心的市民でありますというような顔で、悪人を切りまくる。それを観て大衆は喜ぶ。まあ、喜ぶという言葉が不適切なら、楽しんでいる。「ひどいことだ、かわいそうだ、みっともない、ハレンチだ、ああだこうだ・・・」と非難、判断、同情しながらも、際限なく画面に見入っている。そういうことが好きな方々が一定数いるから、番組が成り立つんです。悪口は楽しい。自分も含めて、人間はこういう事が好きだ。そのことを勇気をもって肯定しよう。だけど、なぜこういう事を人間は好むのだろう。人間はそんなにもどうしようもない生き物なんだろうか? お釈迦さまのように気高く生きる道は、我々一般庶民には許されないんだろうか? 悪口言ったり、言われたりの、汚物にまみれたような生き方しか、この世には存在しないんだろうか? そんな行き止まりのような場所にいて、あれこれ考えていたとき、はたと、気が付いたんです。ああ、そうか! エゴをケアするために人は悪口を言いたがるんだ、と。悪口を言うのは楽しいですね。気持ちがいい。言っている間は自分が少し偉くなったような気になります。だけど、非難は自分一人では成り立ちません。相手が必要です。そして、その相手を非難している間は、相手より自分は上に立っている、優越感を感じられる。これが気持ち良さの原因だと気がつきました。もう一つ、エゴをケアするアイテムがあります。自慢です。さりげなく、あるいはあからさまに、自慢話をしてしまうことはありませんか? 私はあります。特に、カミさん相手に「俺は結構すごいんだ」というような話を、ついしてしまう。後で後悔したりするんですが・・・。また、歩きながら自分の内面のおしゃべりに耳を傾けていると、仏教についてひたすら語っていたりします。得意分野について、人に語ったり教えたりするのも、優越感を感じるという点では一種の自慢話なのです。ですから、このブログだって、ひょっとしたら、私の自慢話なのかもしれません。エゴというのは、本当に巧妙に何とかして自己主張したがるものなのです。で、前者の悪口を「溝堀り」と命名いたしました。フラットな場所にもかかわらず、自分(だと思っているエゴ)の周囲を掘って、周囲から浮き立たたせようという行為です。後者の自慢話を「盛り土」と命名いたしました。フラットな場所に土をもって、周囲から際立たせようとする行為です。このことは、私も長い間の瞑想修行の末にやっと確信するにいたったことなので、一般の方は変に思われるかもしれませんが、エゴ(自分)は実は幻想なのです。お釈迦さまもそう言っておられます。これは仏教の教えの核心です。禅では無我といっています。エゴ(自分)は、社会的には一種の「お約束」ですし、私的には一種の「思い込み」なんです。ここのところは、別に修行が必要でもなんでもない。じっくりとこのことを熟考してみてください。思い当たるフシはありませんか?

 

エゴはしぶとい生き物のようなもの

仏教的に言えば、個人は幻想です。日々、私たちは自己イメージを作り続け、それを自分だと思っているのです。普通はそのことに無自覚なので、気づかないだけなのです。私も以前はそうでした。しかし、瞑想修行を続けているうちに、そのことがゆっくりとわかってきました。瞑想修行をすると、心が落ち着いてきます。なおかつ、気づく能力がアップします。気づく能力というのは、心の動体視力です。今まで見えていなかった心の動きが見えてくるんです。野球のバッターにたとえると、今まで速くて対応できなかった球にタイミングがあってくるように、それをとらえることができるようになる。そんな感じです。ただ、一気に覚醒する方もいらっしゃる一方で、ジワジワとしか目覚めてこない多くの方々もおられます。禅では前者を頓悟(とんご)といい、その逸話が語られることが多いです。竹箒で庭を掃いていたら、石がパチンと弾けてその瞬間悟った、なんて話もあります。後者は漸悟(ぜんご)といい、残念ながら、禅の文献ではほとんど語られることがありません。少なくとも、私は知りません。で、私は漸悟タイプなので、一気にということはほとんどありません。ですので、うまく自己イメージ(エゴ)が消えてくれた! と喜んでいると、何かの拍子にムクムクとそれが感じられてガッカリする、というようなことを繰り返しています。エゴはゾンビのようにしぶといのです。初期のころは、「これ、一種の形状記憶合金だな。溶かしたと思ったら、元に戻っている!」と思っていましたから。エゴが幻想なのは確かなことですが、それと同時に並大抵のことでは退治できない、自分のなかにいるもう一つの生き物のようなものなのです。また、それは相当悪賢いので、欺かれないよう、注意深くあらねばなりません。そのことをお釈迦さまは、よくよくご存知だったのでしょう。五戒だの八正道だの、厳しすぎると思われる戒律は、エゴ消滅に向かって歩む我々の道しるべなのかもしれません。私も修行していくなかで、そのことがゆっくりと感じられるようになってきました。

そろそろ、まとめに入りましょう。確かに悪口は楽しいものです。また、悪口はエゴをケアするための必要悪とも言えます。ですから、上手にやりましょう、ということをまず申し上げます。人を傷つけるような直接的な悪口はやめた方がいい。イジメの悪口は絶対ダメです。発散する悪口は、「本人の耳にはいらなければ良い」というようなものでしょうが、できれば勧善懲悪の映画を見るとか、仮想の世界でやった方がいいですね。それが、ネットでスキャンダルを漁るとか、ワイドショーで祭りあげられた悪人を非難するとか、だんだんと現実に近い所でやりだすと、危なっかしくなってきます。さらにエスカレートすると、次はSNSに書き込んで、図らずも本人を傷つけるということになる。それはあまりいただけません。有名人であっても、一人の人間ですから、傷つけるようなことはいけません。また、悪口はエゴを養いますので、その時は楽しくとも、言った本人にとって、後々良くないことになります。それがはっきりと理解できれば、自然とやらないようになってきます。そのようにエゴを薄くしていくというか、そのうごめきを少なくしていくことが、瞑想修行の正しい方向だ、と私は思っています。そして、遠回りのように見えますが、それが本当の安心につながるのです。

ここまで読んでくれた方、ありがとう。また!

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2021 All Rights Reserved.