「信仰は必要か?」その難問にせまります

 

BelieveじゃないTrustだ!

こんにちは!

さて、今回はなんと、信じるとは何か、という問題に挑戦してみたいと思います。えー、一応、坐禅をやらしてもらってるお寺さんは禅寺で、大乗仏教ですから、信仰ということが強調されます。「信仰が大事だ」と言われる。だけど、私のようなすれた人間は、そうやすやすと「ハイ、わかりました、じゃあ、今から信じます」というわけにはいかない。それは私だけに限らず、戦後生まれの方々はたいていそうなんじゃないでしょうか。科学的に、合理的に判断しなさい、と教えられてきませんでしたか? 私たちの子ども世代は、もっとそうです。オウム真理教の事件のせいでしょうか、宗教と聞いただけで、怪しいものとカテゴライズしてしまいます。で、まあ、それでも禅というか、仏教の世界を知りたい、分かりたいという気持ちは強かったので、信ということについて自分なりに検討はしてみました。以下、その話です。

私にとって、信というと、なんかよく理解できないまま、ポーンと飛んで向こう側に行っちゃうイメージなんですね。とにかく、なんでもいいから、仏の世界に飛び込みなさい、と。でも、それは出来ないし、嫌だなあと正直思いました。地続きでありたいなあ、そこは・・・と思ったんですよ。そんなときに、たまたまアメリカ人で、得度して禅僧になっちゃった若い人と話す機会がありました。で、普段そういうことは全然出来ない内気な人間なんだけど、チャンスだと思って聞いてみたんですよ。「あなた親を泣かすようなことしてまで、得度したってことは、何か特別な経験があったんだろう? それを聞かして欲しい」って。そこに、信についてのヒントがあるんじゃないかって思ったんですね。そしたら彼、「いや、そんなもん何もなかった」と素っ気ない。でも、食い下がって、「何かをBelieveしたからだろう? そうじゃなきゃできないよ、そういうことは」といったら、「いや、Believeじゃない。Trustだ。そのとき出会った人にたいするTrustがあったからだ」といったんですね。これには参った。納得しました。なるほど、そうか、Trust・信頼か! 人間やっぱり、いきなり「神を信じなさい」とか「仏にすべてをおまかせしなさい」とか言われたって、神も仏も、その時点では何もわからないのだから、信じたり、おまかせしたりすることなんて到底できません。それが普通の現代人です。でも、苦しいとき、何かにすがりたいとき、ああ、この人ならわかってくれそうだと、とりあえず信じてみるという程度の信用、信頼はありなんじゃないでしょうか? そもそもそういう信頼がなければ、世の中渡っていけませんよね? で、信用して付き合ってみて、どうなのかと判断する、いいと思えば続ければいいし、これはダメだと思えば離れればいい、そう思います。これは宗教に限らず、例えば結婚だってそうじゃないでしょうか。100%私を幸せにしてくれるという信が得られるまで結婚しません、って言っていたら永遠に結婚できませんしね。だから、私の結論は、少なくとも仏教に信は必要ありません、ということです。ただ、何か難癖つけてやろうというような、疑り深い気持ちで接近するのではなく、とりあえず素直にこの人の言うことを聞いてみよう、というような気持ちさえあればいい。そして、修行を続けていくなかで、教えが確信に変わるんです。その確信は、他人からみると少々非論理的なものにみえるかもしれません。だから、自分にとっての確信が他人からみれば信仰に見えるのです。修行の結果が信になるというのが事実で、修行の最初に信が必要というのは間違いです。いいかえれば、結果が確信になるのはいいが、最初から盲信はダメなんです。最初に信を求める集団は、かなり危ない集団ではないでしょうか? 教祖や社長、会長に対する絶対服従や信仰を求められたら、そのときこそ充分に注意してくださいね。

 

仏教は心の科学、盲信をいさめたお釈迦さま

スマナサーラ長老も、「仏教は心の科学。宗教ではありません」とハッキリ言ってらっしゃいます。で、さらに、仏教は日本には伝わらなかったとおっしゃるので、日本の仏教者は酷く気分を害してしまうのです。ただ、いろいろ読んでみて、スマナサーラ長老の言われることのほうが正しいな、と私は思います。中国経由の仏教はわかりにくく難解です。それに比べてスマナサーラ長老が説かれる仏教はわかりやすく、しかも面白い。なぜなんでしょう? もう少し勉強して、そのあたりのことも考えてみたいのですが、いまのところ及びません。まあ、ともかく、スマナサーラ長老のテーラワーダ仏教を勉強すると、お釈迦さまの教えはかくも理知的で、完璧に説かれたのかと感動します。それが、ただの理屈でなく、自分自身の心の構造というか、もう少し柔らかくいうと風景といいますか、それと合致するんですね。だから、納得するし、信頼してその線で修行が続けられます。日本の仏教を悪く言うつもりはないのですが、中国経由の仏教には修行の方法論が欠けている、あるいは少ないように思います。テーラワーダ仏教の文献を読むと、ほとんど修行論なんですね。それが、日本の仏教は・・・悟りの結果ばかりで、じゃあその境地にどうやったらたどり着けるんだろう、という我々の素朴な疑問に答えてくれるものがない。ああ素晴らしい境地だ! と憧れるだけ、あるいは、そのまんまでいいんだ、と無意味に安心するだけ、のことが多い。テーラワーダ仏教は困難ではあるが、我々凡人にも悟れる道、とまではいかなくとも、少しましな人間になれる道を具体的に指し示しています。また、我々は人類の師たるお釈迦さまの弟子、仏子なのですから、無意味なセクト争いは無用です。いいところは他から学ぶべきです。そうそう、お釈迦さまのこの言葉をご紹介するんでした。お釈迦さまは弟子たちにこうおっしゃったそうです。「私を尊敬するからといって、私の話を鵜吞みにしないでほしい。金(きん)を扱うとき、それが本物かどうか、削ってみたり、熱を加えて溶かしてみたりするだろう? 私の話もそのように扱って欲しい」…ね、すごいでしょう? また、弟子に「私の話を受け入れますか?」と問いかけ、「いえ、まだ、受け入れません」と答えたその弟子を、ずいぶんと褒めたそうです。こういった逸話からも、お釈迦さまが盲信をいさめていたことは確かです。

 

お試し感覚で経験、そして確信を育んでいけばいい

そろそろまとめに向かいたいと思います。えーっと、私が言いたいことは、まあ、ざっくり言えば、宗教だからって簡単に信じちゃダメだってことです。人間はどちらかというと、信じやすい生き物です。というか、生き物って本来生きることに肯定的です。殺されたくない、死にたくはない、生きていたい、というのが生き物です。肯定的であるということは、今あるこの世界を、とりあえず認めて、そして信頼して、生きていこうという意志が本来的なものであるということなんじゃないでしょうか? 生まれたての赤ん坊が妙に死にたがって困ったなんて話は聞いたことがない。そして、生きていくには何かに身を預けて頼らざるをえない。ヒヨコは、初めて見た生き物を親だと思って付いて回るそうです。信頼を基に生き始める、それが生き物ってもんです。信頼できるものが周りにあるから生きていける。それが、たとえば都会の一人暮らしで、孤独で信頼できる人間関係が希薄だったりすると、少し親身になって話を聞いてくれたり、親切にされたりすると、コロッと変な団体や仲間に騙されて、後でとんでもないことになったりする。それは、人には信頼関係のなかで生きていきたいという基本的な欲求があって、それが満たされないと、解決を急ぐあまり盲信してしまうからです。だから、もしあなたが何かの宗教を選ぼうと思っているのなら、急ぐ必要はありません。身近で信頼できる人間関係や地縁をもとに、お試し感覚でいろいろ経験したり、勉強したりしながら、信仰心、いや確信を育んでいけばいいと思います。私の場合を少しお話ししておくと、こうです。瞑想というは、まあ、静かにして自分の心の景色を見る作業です。これは地味な作業で、科学者が毎日ラボに通って実験を繰り返すのに似ています。時間もかかります。でも、根気よくやっていると、心がクリアに見えてきます。心を見る動体視力が増して、今まで見えていなかったことが見えてくるんです。そして、それが本で読んだ教えとクロスしてきます。なるほど、本当にそうらしい、そうだ、と確信を抱きます。だけど、それは先にいったように、論理的に説明するのが難しく、むしろ感覚に近いもの、直観的なものです。だから、このことを他人に話すというのは、好きな音楽の良さを説明する努力に似ているのかもしれません。口じゃうまくいえない、一緒にコンサートに行ってくれれば、この音楽の良さがわかるのに! そんな感じです。また、前項で仏教は心の科学といいましたが、通常の科学との違いは結果を外在化できないことです。通常の科学なら、実験や発明品の成果として、外部に現れますから、すごいね! そうだね! ということになりやすい。しかし、心の科学は個人がそれぞれ、自分自身の心を観察して、吟味して、納得してということをやらなければならない。ここが難しいところです。また、興味をもつ人が少数です。誰かがいっていましたが、せっかくいい車を買ってもらったのに、遊びにもいかず、女の子ものせないで、エンジンをかけたままボンネットを開いて、ひたすら「どうやって動いてんだろう?」って見ているのに似ていますから。家族から変人扱いされるのも、仕方ないことかもしれません。が、私のような人も若干、世の中にはいらっしゃるようなので、及ばずながら、こうしておしゃべりするわけです。今日はこの辺で。

じゃ、また!

 

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