ひと一人、死んでいくのは、大変なことだ

2021/06/27
 

「宗教はアヘン」じゃなかったんすか!

すんません。また、親父のことから、話させてください。宗教のことを考えていたら、どうしても少年期のことを触れずにはいられなくなったのです。親父は日本共産党の熱烈な支持者でした。時代が時代でしたから、教職員組合でも、バリバリ活躍していた、いわば活動家だったんです。共産党といえばマルクス。マルクスといえば「宗教はアヘン」。てことで、親父は私達を、そのように教育しました。お墓参りはしたことない、法事も知らない。連れていかれるのは、赤旗まつりだけ。科学的なものはいいが、非科学的なものは一切ダメ。神社仏閣、心霊、幽霊、運命、迷信、占い…などなど、怪しい雰囲気をもっているものは全部ダメ、興味をもつのもおかしな人、馬鹿な人。ああそう、思い出した、大学受験の際、心理学部にしたいと言ったら、非科学的だからという理由で日本史に変更させられたんだっけ。だから、小学生の頃はマジで思ってた、「僕らが大きくなる頃には、お寺もお墓もなくなるんだろう」って。徹底して唯物論者、合理主義の人だと思っていたんだが…。えー、それで。うん、そのぉ、なんですなあ、いろいろ親父には世話になったし、悪口言うつもりはないんですが。でもね、年老いてから、あるとき実家に帰って話してたらね、親父がこう言ったのには驚いた。「こないだ、墓買うたんや、200万した。年代は西暦で刻んだ」となんだか得意気でもある。天皇制には反対だから、西暦でということらしいが。でも、父ちゃん、それってキリスト教、お寺なら仏教なんじゃない? と言いたかったが言葉を飲み込んだ。パーキンソン病の妻を献身的に介護し、自分も悪性リンパ腫を患ってボロボロになっている、そんな人に向かって「あなたが以前おっしゃっていたことと、いささか整合性がないように、私には思われるのですが、いかがなもんでしょうか。えー、簡潔にご答弁ください」みたいなことは言えませんよぉ。ああ、親父も年くって、墓でもあったほうが安心なのかなあ、と思った。でも、心配性の俺のことです。ついつい不安に思って「俺達、兄弟、全くそういうことに疎いし、どうやってお寺と付き合ったらいいのか、ねえ…」というと、答えに窮したようで、黙ってトイレに行ってしまった。うーーん、あのぉですね。俺は厳しい人間じゃあない。人の弱さってもんも知ってる。考え方が変わるのはいい。恥ずかしいことじゃない。そうか、と思うだけ。そこはダメ出ししない。でも、なぜ変わったのか、どう変わったのか、そこんとこ何か言って欲しかったんだよね。「俺も若い頃はこう思っていたんだが、年とともにこういう考えになって云々」みたいなね。それがひとつの教えになったと思う、後進へのね。そこ、黙るとは……脱糞してでも、ひとこと言い得て欲しかった。無念!

 

あのメンコみたいなやつ、あとで拾ってまた使うんやろか?

そんな親父も、それから数年後、亡くなっちゃいまして、葬儀をいたしました。でね、予めお断りしておきますが、葬儀という儀式を、私は否定したいわけじゃございません。子孫のためにも、自分自身の安心のためにも、こういうこと、つまり葬儀や法事はやった方がいいんだ、という考えに傾いたこともあります。ですが、ここは、あのとき私はこう感じた、とうい話ですから、そのつもりで聞いてください。全くの素人なもんで、困った。一応長男だから、お寺とのやり取りもした。「あのー、私共、こういうことはに大変不得手でして、えー、誠に恐れ入りますが、この度は、えー、いかほど、お渡しすれば、よろしいのでしょうか」みたいなことも聞いた。請求書がない、お金を払うほうがペコペコする、という事態も新鮮で、なるほどお寺というものは、我々にとってこういう存在なんだと、初めて知った。戒名料が、長いほうがお高いというのも、戸惑った。えっ、ちょっと待ってください。どうする? ん-、これはひょっとして商売ですか? 長いとなんか違うんですか? まあ、いいか、そういうもんだよ、これじゃ話が前に進まない。そこはうちら3兄弟、唯物論で育ってきてるから、瞬時に「一番安いやつ」で話がまとまった。葬儀は人の死を弔うセレモニーです。私もそれなりに厳粛な気持ちになっているのですが、金の話が出てくる度にしらけてしまうのは、どうしようもありません。また、ああいう緊張した雰囲気のなかでは、かえって笑いたくなるんですね。和尚さんが一生懸命にお経をあげている。うちらは後ろでかしこまっている。そのうち、和尚さん、何か叫びながら、札みたいなものを前方に向かって投げ出した。で、弟が奥さんに小声で「あのメンコみたいなやつ、あとで拾ってまた使うんやろか?」奥さん、真っ赤な顔して「やめて!」て言ってた。

 

何度でも言う、わらじ履かすのだけは、やめてくれ!

遺体をお棺に入れて、最後にお別れしますよね。今の技術はスゴイよね。顔なんて、生きてるみたいにあしらってくれる。白い衣装か…でも、なに、これ、親父わらじ履いてんのか? それに紙に印刷された三文銭。未だに三途の川の渡し料は三文なのか? おもちゃみたいな小刀も胸のあたりに持たされてる。冥土の旅の途中で鬼が襲ってくるから、それで戦えという…。オヤジー、だいじょうぶかぁ! ついに、切れました、集中力。河合隼雄先生が、死に向かうには、ファンタジーが必要っておっしゃっている。つまり、死んだ後はこうなるんだという、お話を信じることで、人間は安らかに死んでいけるのだ。だけど、この陳腐さはなんなんだ。わらじにニセ金に木のボッコ、そんな装備で、冥土の旅なんて行きたくないよぉ! せめてミズノのウォーキングシューズを履かしてくれ。終の棲家になった老人ホームで、親父の遺品を整理していたら、物のかげから、ワンカップの日本酒がいっぱい出てきた。最後の数か月は、肺に水が溜まって、ずいぶん苦しんでいた。死の恐怖もあったんだろう。それを酒で紛らわそうとしたんだろうか。残して死んだのは、人の目を気にして大っぴらに飲めなかったからか。飲もうか飲むまいか迷ったり、自分の弱さを秘かにに責めたんじゃなかろうか。そんなことも考えた。いずれにしろ、人一人死んでいくのは大変だ。ひと昔前のように、集団でひとつの死のスタイル、死後のファンタジーを共有し信じて、死んでいった人びとはもういない。いや、今でも、ご先祖様のところへ行くのだと信じて、立派に死んで行かれる方々もおられるだろう。そういう方々には伝統を、ぜひ継いでいってほしい。しかし一方で、我々のような、血縁にも、地縁にも薄いボヘミアンのような人たちも確実に増えてきている。医療関係者によれば、死の恐怖を訴える人も増加していると聞く。そういう人たちはいったいどうすればいいんだろうか? どこか拠り所になる場所、拠り所になる人を見つけるか、あるいは私のように修行するしかないんじゃなかろうか。生死の問題を明らめる、とえばカッコイイが、要するに「死ぬのは怖いよぉ」ってこと。ゾンビに追われて修行してるようなもの。人一倍怖がりです。それに、何度でもいうが、わらじを履かすのだけは、やめてくれ!

 

 

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