【臨済録】やさしい現代語訳・解説 上堂8

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、仏教の理解は、サマーデイ+気づきで起こる。

 

①読み下し文

上堂(じょうどう)。僧問う、如何(いか)なるか是(こ)れ剣刃上(けんにんじょう)の事(じ)。

師云く、禍事(かじ)、禍事。

僧擬議(ぎぎ)す。

師便(すなわ)ち打つ。

 

問う、祇(た)だ石室行者(あんじゃ)の碓(うす)を踏んで脚を移すことを忘却(ぼうきゃく)せるが如きは、什麼(いずれ)の処に向ってか去る。

師云く、深泉(しんせん)に没溺(ぼつでき)す。

 

師乃(すなわ)ち云く、但有(すべ)ての来者(らいしゃ)は、伊(かれ)を虧欠(きかん)せず。総(そう)に伊が来処(らいしょ)を識(し)る。

若(も)し与麼(よも)に来(きた)れば、恰(あたか)も失却するに似たり。与麼に来(きた)らざれば、無縄自縛(むじょうじばく)。

一切時中(いっさいじちゅう)、乱(みだ)りに斟酌(しんしゃく)すること莫(なか)れ。会(え)と不会(ふえ)と、都来(すべ)て是れ錯(しゃく)。分明(ふんみょう)に与麼に道(い)う。天下の人の貶剝(へんばく)するに一任(いちにん)す。久立珍重(きゅうりつちんちょう)。

 

②私訳

上堂の際、ある僧(①)が問うた。

「剣を抜くようなことになったとき、いかに振る舞いますか」

臨済禅師「大変だ! 大変だ!」

僧は思案した。臨済禅師は僧を棒で打った。

 

また、ある僧(②)が問うた。

「石室行者は碓(うす)を踏む行(ぎょう)をして、碓を踏む意識すら忘れ去るような無心の境地に到ったといいますが、このとき行者はどこに去ったのでしょうか」

臨済禅師「深い泉に溺れたのだ」

 

さらに臨済禅師は、次のように言われた。

「ワシのもとに来る者はすべて、自我を破壊してはいない。そのため、自我がどう出るつもりか、わかるのだ。もし、このように来れば立場を失うし、また別のように来れば、見えない縄で自分を縛ることになる、というように。

一切の不要な思考や社交はやめなさい。仏法がわかったとか、わからんとか言っている者たちがいるが、どちらも間違いだ。。ワシはそう断言する。このように言うと、天下の人は馬鹿にするだろうが、それはそれでよいのだ。

長く立ちっぱなしでご苦労だった。

 

現場検証及び解説

 

まず、①の僧の場合。

臨済先生に「剣を抜くようなことになったとき、いかに振る舞いますか」と問います。当然禅僧らしい答えを期待して問うたと思うのですが、意に反して臨済先生は通常人の如く「大変だ! 大変だ!」と慌ててみせます。

「みせます」と書きましたが、臨済先生は意図してそうしたのではありません。自然にそういう態度が出てきました。自然ではありますが、学僧の思惑を外し、当惑させるに充分なはたらきでした。

僧は想定外の臨済先生の反応に、思わず思案してしまいます。どう対応していいかわからなかった、あるいは、僧からは自然な反応が出てこなかった、といったところでしょう。

法戦は、思案した僧の負けとなり、臨済先生は罰棒を下します。

このように法戦は、スポーツの勝負に似ています。もちろんスポーツの場合は、事前の作戦も大切ですが、とっさの判断がものをいいます。プレイ中は「考える」よりも「その場の反応」が勝敗を決めるのではないでしょうか。そのためには、頭の中は「思考が充満」した状態よりも「からっぽ」の方が有利なのです。

 

②の僧の場合。

碓を踏む行というのがあるのでしょうか。三昧(サマーデイ)になるための行です。三昧(サマーデイ)とはなんでしょうか。「心を何かに集中させ、その何か以外のものは何もなくなるほどに集中を強め、すべての妄想がなくなった状態」です。

この石室行者の場合、碓を踏むことに集中し、その行為そのものに成り切り、妄想なしの深い集中に入ったものと思われます。このような三昧境は禅が目指すところです。私たち修行者にとって、三昧境は容易なことではなく、石室行者は大したものだと思うのですが、臨済先生はそれを称えるどころか、批判的に評価しました。

「深い泉に溺れたのだ」

三昧境は大変気持の良いものらしく、その境地に入ってしまうと、出たくなくなるそうです。また、クセになるというのか、中毒になるというのか、その境地に淫(いん)してしまうことが起こるそうです。禅的には「三昧境を知ったらそこから出て、その果実をもって衆生済度しなさい」ということになっています。

なので、臨済先生は石室行者を評価しないのです。このような行者のことを禅では「一枚悟り」「穴倉禅」「はたらきのない禅」だと言って、大変馬鹿にします。自分が三昧境になって、気持ち良くなり、そこでお終いというのは、大乗仏教的ではないということです。

テーラワーダ仏教にも、この三昧境に対する批判があります。テーラワーダ仏教では、三昧境になるための集中瞑想をサマタ瞑想と言います。そして、サマタ瞑想だけでなく、ヴィパッサナー瞑想をして悟りを目指します。

ヴィパッサナー瞑想というのは、「特殊な方法で心の観察を行う」瞑想です。特殊な方法というのは、おそらく「科学とは違う方法で」という意味合いを含んでいます。科学的観察は「分析」が中心です。

ヴィパッサナー瞑想の観察は分析しません。「分けずにありのままを見る」のです。対象に触れ対象を「いじくり回す」見方ではなく、少し距離を置いて「介入せずに見守る」感じの観察です。対象にただ認識の光を当てるという意味では、観察と言うより観照と言った方がより近いのかもしれません。

テーラワーダ仏教では「サマタ瞑想だけではダメだ」と言います。サマタ瞑想で養った集中力を使って、ヴィパッサナー瞑想をしなさい、二つの瞑想が手を取り合って進んでいくのが正しい修行の仕方である、と。私もこの考えに依って修行をしています。心の観察結果と、それに伴う心の変容が仏教の一番大事なところです。そこにもっていかないと、三昧境になって「ああ、気持ちいい」で終わってしまっては、なんにもなりません。

 

ワシのもとに来る者はすべて、自我を破壊してはいない。そのため、自我がどう出るつもりか、わかるのだ。

禅の指導のポイントとして、照(しょう)と用(ゆう)の二つがあります。照というのは学僧の自我を照らす、ということ。自我が見えれば、その学僧の力量も推し量れます。学僧の自我が見えたところで、自然に相手に対して、はたらきが現れます。これが用です。用は自我を破壊する方向にはたらきます。

臨済先生は、自我丸出しの学僧たちの様相を、上記の言葉で語っているのです。

 

一切の不要な思考や社交はやめなさい。

社会生活を営む私たちにとって、大変困難なミッションです。しかし、仏教の理解が進むと、自然に不要なあれやこれやは、減ってきます。そのようなから騒ぎが、自然に嫌いになってくると思います。無理して減らそうとすると、苦しくなります。

生活の中の刺激が、自分にあまり良い影響を及ぼしていないことを知ることが大切です。日常生活での不断の気づきが、理解をもたらします。

仏教はサマーデイだけでは不十分です。サマーデイで養った気づきの力を使って、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)のすべてにおいて気づきを保ってください。そうすれば、自然に心の理解が起こり、修行のプロセスは進んでいきます。正しい修行法を知ることが大変重要です。

日常生活の範囲内で無理なくできる、適度な修行を適度に続けることが大切だと、私は思っています。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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