【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆46

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、仏教修行はプラスではなく、マイナスで。

 

①読み下し文

大徳(だいとく)、因循(いんじゅん)として日を過ごすこと莫(なか)れ。

山僧往日(さんそうそのかみ)、未だ見処有らざりし時、黒漫漫地(こくまんまんじ)なりき。光陰(こういん)空(むな)しく過ごすべからず。腹熱し心忙(せ)わしく、奔波(ほんぱ)して道を訪(おと)う。後(のち)に還(かえ)って力を得て、始めて今日に到(いた)って、道流(どうる)と是(かく)の如(ごと)く話度(わたく)す。

諸の道流に勧(すす)む、衣食の為(ため)にすること莫れ。看(み)よ、世界は過ぎ易(やす)く、善知識には遇(あ)い難(がた)し。優曇華(うどんげ)の時に一たび現ずるが如くなるのみ。

你(なんじ)諸方に箇(こ)の臨済老漢有りと聞道(きき)て、出(い)で来たって便(すなわ)ち問難して、語り得ざらしめんと擬(ほっ)す。

山僧に全体作用せられて、学人空しく眼を開き得て、口総(そう)に動き得ず。懵然(ぼうぜん)として何を以って我れに答えんかを知らず。我れ伊(かれ)に向って道(い)う、竜象(りゅうぞう)の蹴踏(しゅくとう)は驢(ろ)の堪(た)うる所に非(あら)ずと。

你は諸処(しょしょ)に祇(た)だ胸を指し肋(わき)を点じて、我れ禅を解し道を解すと道う。三箇両箇、這裏(しゃり)に到(いた)って奈何(いかん)ともせず。

咄哉(とっさい)、你は這箇(しゃこ)の心身を将(も)って、到る処に両片皮(りょうへんぴ)を簸(ひ)いて、閭閻(りょえん)を誑誶(おうが)す。鉄棒を喫(きっ)する日有らん。出家児に非ず、尽(ことごと)く阿修羅界(あしゅらかい)に向って摂(せっ)せられん。

 

②私訳

諸君、普段の生活にまみれてボンヤリと過ごしていてはいかん。

ワシも未だ悟りを得ない頃は、お先真っ黒な気持ちであった。時を無駄に過ごすまいと、あせって落ち着きがなく、あちこち駆け回って道を訪ねた。

後にお陰様(かげさま)で力を得て、今日こうして諸君に話ができるようになった。

諸君に勧めたいのは、「修行を衣食のためににするな」ということだ。時は過ぎやすく、優(すぐ)れた師には会い難い。優曇華(うどんげ)の花が三千年に一度しか咲かないように、優れた師も現れないと言うぞ。

諸君は、「臨済老師という人がいるらしい」との噂(うわさ)を聞きつけて、やってきたのだろう。対決し、問い詰めて、絶句させてやろうと思って。

しかしワシが、本来の面目のまま対応すると、ポカンと眼を見開いて、君たちこそ絶句する。呆然(ぼうぜん)として、何を言っていいのかわからない。

ワシはそのようなとき、こう言うのだ。「象に踏みつけられたら、ロバは堪(た)えられないのだ」と。

諸君はいたるところで「我こそは禅を解し道を解した者だぞ」と胸を張る。

そんな輩(らから)が2,3人やってきても、ワシはびくともせん。

くだらん! そのようなていたらくで、いたるところでおしゃべりしては、人びとをたぶらかす。閻魔(えんま)大王の鉄棒を食らう日がきっとくるぞ。

そんな奴らは出家者とはいえん。一人残らず阿修羅界に連れていかれるだろう。

 

現場検証及び解説

 

ワシも未だ悟りを得ない頃は、お先真っ黒な気持ちであった。時を無駄に過ごすまいと、あせって落ち着きがなく、あちこち駆け回って道を訪ねた。

臨済先生にも、こういう時代があったのですね。安心しました(笑)。

しかし、これだけ思い詰めて修行に打ち込むというのは、さすがだと思います。私も10年以上修行を続けてきましたが、周囲の修行者を見るにつけ、本気度の多寡(たか)に個人差があるのに気がつきます。習い事のように楽しくやりたい人もいれば、社交を求めてやって来る人もいます。

いろんな動機で仏教に興味を持つ人がいます。どんな動機で始めるのも自由だし、悪くはないのですが、やはりその後の修行の進捗(しんちょく)と最初の動機(仏教用語で発心・ほっしんと言います)は関係があるように思います。

私の見方によれば、仏教を学ぶには実存的な悩み(生きる意味に対する悩み)を抱えている人の方が向いている気がします。知的レベルはあまり関係ないように思います。ありていに言えば、どれだけ真剣に人生に悩んでいるかがポイントのような気がします。

「今の自分も結構イケてるけど、仏教を学んでさらにイケてる俺になってやろう」という動機は、残念ながら見当違いです。臨済先生ばりに「何言ってんだ、馬鹿野郎!」と言いたくなります。

「自分は今苦しい。この苦しみを取り除きたい。仏教を学んで少しでも楽になりたい」という動機の方が、好感がもてます。

前者が「自分にプラスする」修行とすると、後者は「自分からマイナスする」修行です。人生はたいてい自分にプラスするかたちで進んでいきます。特に前半はそうかもしれません。そして人間は既に持ってものを捨てるのを嫌がります。どちらかというと、「もっと欲しい」のです。

人生の前半は「もっと欲しい」が満たされていく可能性がありますが、後半になっていくと「もっと欲しい」と思ってもなかなかそうはいかなくなります。むしろ「既にあるものが次々に奪われていく」のが、後半の基調になっていきます。そのとき人は正に実存的は問題に突き当たります。「生きるとはどういうことなんだ。死ぬとどうなるんだろ」と。

この問題に突き当たったとき始めて、真剣に人は救いを求めだすのかもしれません。仏教にその救いはちゃんと用意されています。しかし、容易にはその救いは実感できません。なぜなら、その実感を自我が邪魔しているからです。ですから、畢竟(ひっきょう)仏教の修行は自我を無くす、あるいは捨てるというものになります。

自我を構成している要素、それは思考です。この思考に気づき、思考を捨て続けていくのが瞑想修行です。自分(自我)にプラスするのではなく、自分(自我)をマイナスしていくのが修行の方向です。それをハッキリ意識しないで、努力してしまうと、一向に埒(らち)が明かないという事態になってしまいますので、注意してほしいのです。

もう一度言います。「仏教修行はプラスではなく、マイナスで」です。

 

諸君は、「臨済老師という人がいるらしい」との噂(うわさ)を聞きつけて、やってきたのだろう。対決し、問い詰めて、絶句させてやろうと思って。

日本人がもし臨済先生の所に伺(うかが)って、教えを請うとしたら、まずへりくだって「お教えください」とお願いすることでしょう。ところが、中国の若者はそういうメンタリティーとは、ちょっと違うようです。いきなり喧嘩腰というか、対決姿勢で臨んで行きますね。

この「示衆」の項だけでなく、既にご紹介した「勘弁」「行録]、これからご紹介する「上堂」の項でも、何かというと、境地の探り合い、対決、勝敗・・・そんなのばかりです。これははっきり言って、私の好みではありません。

テーラワーダ仏教やヒンズー教では、そのような対決は聞いたことがありません。非二元の教えでは、上意下達のスタイルさえ取っ払われ、教えの「分かち合い」が主旋律になります。

いいじゃないですか。「分かち合い」大好きです。

ということで、長々とご紹介してきた「示衆」も、あともう一回で終わりです。読んでくださっている方、ありがとうございます。この拙(つたな)いブログが、あなたの修行に少しでもお役に立てれば、大変うれしく思います。

 

ではまた、近々にお会いしましょう。

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2023 All Rights Reserved.