瞑想知恵袋 その6【新・慈悲の瞑想】

 

 

こんにちは!

ここのところ、「見性体験、あるいは一瞥体験をしていない者は、修行について偉そうに言うべきではないのではないか?」という思いに取りつかれ、発言を控えてきました、と言うと、大変カッコイイですが、要するに書く気になれなかったのです(笑)。

年末にはインフルエンザになってしまい、15年ぶりに寝込みました。「坐禅を始めてから、ただの一度も風邪をひいたことがない」というのが売りだったのに、その記録も途絶えてしまいました(泣)。

最初は「コロナになちゃった!」と思ったんです。症状がワクチン接種(3回受けて止めた)を受けたときに似ていたので、てっきりそうだと思った。高熱と咳きと関節痛・・・。翌日近くの医者に赴き(受付の女の子に「今度から熱があるときは電話してから来てくださいね」と言われた)、ビニールで囲った個室に入れられて検査。結果インフルエンザと判明。医者は3種類の薬を挙げ「どれにしますか?」と言う。

判断材料に乏しく一番ポップなタミフル(それしか知らなかった)を処方してもらい帰宅。ひたすら寝ました。年間の疲れ(もちろん、修行も含む)がドッと押し寄せて、本当に身体的苦痛が酷かったのです。年末はお休みをいただいたものの、いくら大人しく寝ていても、疲れが思うように引いていかず、年齢による体力の衰えをまざまざとを感じました。

肉体が思うように動かず、ままならぬときは、思考まで弱気になってくるものですね。「ああ、修行なんて何年やってても、見性体験は起こらないし、もうこのへんで打ち止めにして、普通の爺さんに戻ろうかしら・・・」なんてことも、チラチラ考えました。

結局思いとどまって、新年からも晴れて修行が続けられることになりました。禅寺に通っているにも関わらず、禅になじまず、テーラワーダ仏教を支持しながらも、その修行法に徹底できない私です。さあ、どうやって修行を続けて行こうかな、と思案しながらのスタートです。

ひとつだけ収穫があったので、それをご紹介して皆さんと分かち合いたいと思います。

 

「慈悲の瞑想」の別バージョンを創った、というお話です。大した話ではないので、読み飛ばしてください。

「慈悲の瞑想」は効果があるとスマナサーラ長老はおっしゃっています。山下良道老師もそのようなお考えです。私も、今までに何度か挑戦してみたのですが長続きせず、そのつどおざなりになっていました。

それが、新年になって、はたと気がつきました! ああ、私にしっくりこなかったポイントはココだったのだ!と閃いたのです。

説明の前に、オリジナルの慈悲の瞑想を簡単にご紹介します。

 

私は幸せでありますように

私の悩み苦しみがなくなりますように

私の願いごとが叶えられますように

私に悟りの光が現れますように

私は幸せでありますように(3回)

 

以下、主語が変わります。まず「私の親しい人々が」次に「生きとし生けるものが」。その後が少し唱えるのに抵抗を感じる主語になります。「私の嫌いな人々」そして「私を嫌っている人々」と続きます。最後に「生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)、で終了です。

私のなかで、一番抵抗がある部分が「私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように」でした。なぜなら、私の嫌いな人々が極悪非道な人だとすると、その人が願うことなんてろくでもないことである可能性が大きいです。たとえば、その人がテロや銀行強盗、詐欺、人身売買なんてことを企てているかもしれません。そんな人の願いなど、「叶えられますように」とはどうしても言えません。

で、よく考えてみたら、そういう話ではない、ということに気がつきました(笑)。

慈悲の瞑想はもちろん悪事が成就することを願うことではありません。悪人にも、もちろん仏性はあります。しかし、仏性に気づかず自分の利益のみを追い、その結果、悪人と呼ばれるような生き方をしているわけです。最初から悪人であったわけではありません。また、悪事を悔い改めれば、善人になる可能性もあります。慈悲の瞑想もそのような人間観に基づいて構成されているように思います。

であるならば、そのような意味合いを持たせるように、言い直してもいいのではないかと、私は考えました。文の順序や言葉、「てにをは」も自分にしっくりくるように変えてみました。次に私の慈悲の瞑想・新バージョンをご紹介します。

 

私が幸せでありますように

私の本当の願いが叶いますように

私が悩みと苦しみの原因を正しく理解し、それを乗り越える術(すべ)を学びますように

私の気づきの力が増し、その光が広く深く心に射(さ)し込みますように

私が幸せでありますように(3回)

 

と、まあ、こんな感じにしてみました。また、「生きとし生けるもの」という言い方も悪くはありませんが、私は「すべての生き物」と言ってみたいです。

新・バージョンの要(かなめ)は「私」が「個我=エゴ」ではない、という所です。「私=エゴ」と解釈すると、その幸せはどうしても通俗的は幸せになってしまいます。私たち修行者の幸せはそのようなものではありません。修行者の本当の幸せは「私=エゴ」の消滅です。

ですから、極端な言い方をすれば、山下良道老師がおっしゃっているように「『私が幸せでありますように』というのは、エゴに対する死刑宣告」(「アップデートする仏教」藤田一照共著より)なのです。仏教とは我から始まり、無我にたどり着く修行です。その心持は「幸せ」と表現するよりも、むしろ「心の平安」「心のやすらぎ」のようなものです。

私は「私」を単なるエゴとしての「私」とせずに、「本当の私=本来の面目=真我を目指す私」としたいのです。そうすれば、「私が嫌いな人」の本当の願いは悪事ではなく、「心の平安」であるとすることが出来ます。どんな悪人でも、どんなに悪事を重ねた人でも、本当の願いは「心の平安」ではないでしょうか。

 

そんなわけで、新年から本日まで、順調に「慈悲の瞑想」を唱えることが出来るようになりました。日本のお坊さんで、一番信頼できるのはスマナサーラ長老だと、私は思っているので、その教えを勝手に変えることには抵抗がありました。しかし、違和感を感じるときは、自分で考え検討し工夫することはアリだと判断し、変えてみました。結果を考えれば、正解だったように思います。

 

おわかりでしょうが、この文章は、「慈悲の瞑想」を変えるべきだ、という主張ではありません。他人に強制することもありません。私の場合はこうですと、お伝えしているだけです。では、最後に苦手な「私が嫌いな人々」の部分が新・バージョンではどう変化するかを、皆さんと一緒に感じながら、お別れすることにしましょう。

 

私の嫌いな人々が幸せでありますように

私の嫌いな人々の本当の願いが叶いますように

私の嫌いな人々が悩みと苦しみの原因を正しく理解し、それを乗り越える術(すべ)を学びますように

私の嫌いな人々の気づきの力が増し、その光が広く深く心に射(さ)し込みますように

私の嫌いな人々が幸せでありますように(3回)

 

では、今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

 

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