【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆40

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「もっと得させろ!」とエゴイズムは叫ぶ。

 

①読み下し文

祗(た)だ諸方の六度万行を以って仏法と為すと説くが如きは、我は道(い)う、是れ荘厳門(しょうごんもん)、仏事門なり、是れ仏法に非ずと。

乃至(ないし)持斎持戒(じさいじかい)、油を擎(ささ)げてコボさざるも、道眼(どうげん)明らかならず、尽(ことごと)く須(すべか)らく債(さい)を抵(いた)すべく、飯錢(はんせん)を索(もと)めらるる日有らん。

何が故(ゆえ)に此(かく)の如くなる。道に入って理に通ぜず、身を復(かえ)して信施(しんせ)を還(かえ)す。

長者八十一、其(そ)の樹耳(くさびら)を生ぜず。乃至孤峰独宿(ないしこほうどくしゅく)、一食卯斎(いちじきぼうさい)、長坐不臥(ちょうざふが)、六時行道(ろくじぎょうどう)するも、皆な是れ造業底(ぞうごうてい)の人なり。

乃至頭目髄脳(ずもくずいのう)、国城妻子、象馬七珍(ぞうめななちん)、尽(ことごと)く皆な捨施(しゃせ)するも、是(かく)の如き等(とう)の見(けん)は、皆な是れ身心を苦しむるが故に、還(かえ)って苦果を招く。

如(し)かず、無事にして純一無雑(じゅんいつむぞう)ならんには。乃至十地満心(じゅうじまんしん)の菩薩も、皆な此の道流(どうる)の蹤跡(しょうせき)を求むるに、了(つい)に得(う)べからず。所以(ゆえ)に諸天歓喜し、地神(じしん)足を捧(ささ)げ、十方の諸仏も称歎(しょうたん)せざるは無し。

何に縁(よ)ってか此(かく)の如くなる。今聴法する道人、用処蹤跡無きが為なり。

 

②私訳

一般に言われている、布施・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜、これらを仏法であるとするむきもある。しかし、ワシに言わせれば、そのようなものは仏教宣伝の派手な飾りであり看板にすぎぬ。

また、戒を守って、油を捧げてこぼさないような綿密な修行を積んでも、確かな眼は育たない。布施を無駄遣いしたと、閻魔大王に飯代を請求される日がきっとくる。

なぜなら、仏道に入っても理解がなければ、受けた布施は生まれかわって返済しなければならないのだ。昔、ある長者の庭に81歳の年まで庭にキクラゲが生えた。このキクラゲは、かつて長者から供養を受けた僧の生まれ変わりだった、という話もある。

また、弧峰に独居し、一日一食、坐禅に明け暮れ、勤行に励んだとしても、皆これ業をかえって強くしてしまっているのだ。

また、自分の頭や目、国城妻子、象や馬、七宝など、ことごとく布施したとしても、そのような態度は身心を苦しめるだけで、かえってまずいことになる。

無事にして、純粋な心でいるのが一番だ。

十段階の修行をすべて成就した菩薩がいるが、その修行の跡をたどってみようとしたが、ついにわからなかった。

だから、諸天の神々も歓喜し、地の神も足を捧げ、十方の神々もことごとく称賛する。

なぜそうなのか。今ここで法を聴く者(真我=仏性=本来の面目)は、いくら使っても全く跡を留めぬ者だからだ。

 

現場検証及び解説

 

禅以前の仏教者のことでしょうか、それとも同時代の他宗派の仏教者のことでしょうか、とにかく糞みそに貶(けな)しています。臨済先生がの言説は極めて説明不足ですが、真理を突いた言葉も言われていますので、解説を加えてみます。

 

弧峰に独居し、一日一食、坐禅に明け暮れ、勤行に励んだとしても、皆これ業をかえって強くしてしまっているのだ。

大変素晴らしい修行のありように見えますが、臨済先生は気に食わないようです。「かえって業を強くしてしまうぞ」と。これには一理あって、修行の量が結果を決めるわけではない、というところが仏教修行の困難さです。「よし、悟ってやろう!」と奮起するのは、誰の目から見ても良いことのように思えますが、そうとも言えないのです。

「悟ってやろう!」という欲がかえって悟りを遠ざける場合があるのです。欲は一種の思考、意図なので「思考をなくす目的」を遠ざけます。

出典は忘れましたが、次のような話があります。

「さとり」という生き物がいて、男はその生き物を斧で殺そうとします。ところが、「さとり」は人の心が読めるようで、「お前はその斧で俺を突き殺そうとしているだろう」と言います。知らんぷりすると「気のないふりをしてして、すきを見てその斧を振り下ろすつもりだろう」と言います。

男はどのように振る舞っても、先に「さとり」に心を読まれてしまうので、男はやけくそになって斧で一心に樹木を切り倒しはじめます。男は汗まみれになり、知らぬうちに無心になります。すると汗で濡れた斧が手から滑り出て飛び出し、飛んだ先にいた「さとり」は斧に当たって死にます。

また、ヒンズー教の話だったと思いますが、ある先生が弟子にこう言いました「毎日1時間の瞑想修行を10年間続けなさい。そうすればあなたは悟りに達するでしょう」弟子はせっかちな人でした。「先生、毎日2時間瞑想修行したら、何年で済みますか?」先生はこう言いました。「ああ、それなら、20年かかる」

私もどう「努力」したものか、修行しながら、迷うことがよくあります(笑)。楽しんで取り組んでいられたらOKだと今は思っています。しんどいなあ、と思い始めたら「修行の仕方」を見直してみてください。欲があるとしんどくなります。欲を捨てて楽しんでやることをおすすめします。

あるいは少し休んでみるか、少し減らしてみることです。瞑想修行を止めてしまう、というのが一番悪い選択肢であることを頭に入れておいてください(笑)。

 

自分の頭や目、国城妻子、象や馬、七宝など、ことごとく布施したとしても、そのような態度は身心を苦しめるだけで、かえってまずいことになる。

唐突に思われるかもしれませんが、ここで「新約聖書」でのイエス・キリストのある行動を思い出しました。

「ヨハネによる福音書」2・13-16

「ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づき、イエスはエルサレムにお上りになった。イエスは神殿の境内で、牛、羊、鳩を売る者や両替屋が座っているのを見て、縄で鞭を作り、牛や羊をことごとく境内から追い出し(略)、仰せになった。「こんな物はここから運び出せ。わたしの父の家を商いの家にするな」

 

これは、ザックリ言うと、「神と取引するようなことは許さん!」ということです。売られている動物は神に捧げるための供物として境内で売られていました。お参りに来た人は、それを買って神に供えたのです。自分の願いを叶えてもらおうとして。

私たちも何か願い事を叶えて欲しくて神仏にお参りすることがあります。私もときどきそういうことがあります。なぜが仏殿ではなく神社で(笑)。わずかなお賽銭を入れて、願い事をします。そういうとき、自分の弱さを感じます。普段はそのような行為を「おねだり教」と馬鹿にしているにもかかわらず。

神仏と関わりを持ちたければ、やはり清らかな心でなければなりません。清らかな心とはなんでしょう。「取引感情」「勘定高い心」がないことです。いくら人に親切に優しくしているつもりでも、「見返り」を求める気持ちがあれば、それで人は騙(だま)せても神仏を騙すことはできないのです。

私たちの生活は今や損得勘定で成り立っています。安売りのチラシ、セール予告、巷(ちまた)の噂(うわさ)を目を皿のようにして情報収集し、ちょっとでも得してやろうと身構えています。その能力たるや素晴らしく優れていて、寸毫(すんごう)の差を瞬時に見破り、買い時を判断します。

私も去年まで古本屋を商っていましたが、長年そのような客に付き合い続けて、つくづく嫌になりました(もちろん、そういう人ばかりではないのですが)。しかし、よく考えてみると、自分だって買う側に回れば「高いの安いの」言いたいように言っています。ですから、これはその人がケチで馬鹿で下品だ、ということでなく、消費者という立ち位置がそうさせるのだと気がつきました。さらに言えば、私たちのエゴイズムがそう叫んでいるのです。「もっと得をさせろ!」と。

イエスはそのようなあさましい心持ちでは神の言葉は聴けないのだ、と主張しています。それと同じく臨済先生も、どんなに高価なお布施をしても、その心持ちにやましいところがあれば、願いが叶うどころか、かえって業を深くしてしまうぞ、と言っています。

宗教の世界に、世俗的な価値観は通用しません。いかに無心になれるか、いかに無欲になれるか、いかに捨てられるかに(得られるかではなく)かかっています。ですから、金持ちも貧乏も関係なく、健康か病気かも関係なく、アホも利口も関係ありません。安心して修行してください(笑)。

 

無事にして、純粋な心でいるのが一番だ。

ここにも無事が出てきましたね。簡単なようでいて難解な言葉ですが、どうやら純粋な心に関係があるようです。珍しく臨済先生がヒントになることを言ってくれました(笑)。この無事という言葉は「臨済録」で大変重要な言葉に思われます。あと「信不及」。この二つの言葉がわかると、グンと仏教の理解が深まります。

また、「聴法底の人」もよく出てくる言葉ですが、これはモロに真我のことです。そのような存在をあなたが受け入れる用意があるかどうか、なのかもしれません。ニサルガダッタ・マハラジはソレを聞いたとき「私はそれを信じたのだ」と言います。仏教は「教えの丸吞み」を固く禁じますが、最初の一歩の信頼は必要かもしれません。

ちなみに私は、真我のことを聞いたとき「なんだ、そんな話だったのか、早くそれを言えよ」と思いました。そしてしばらくは、それを半ば信じながら半ば疑いながら、勉強と瞑想修行を続けました。残念ながら、なかなか一瞥体験、あるいは覚醒体験は起こりませんが、ますます「真我は存在している」という考えが好きになっていきます。ただ、それだけです。

また、そうに違いないという状況証拠は集まって来ますし、今のところその考えの瑕疵(かし)は見つかりません。私の中では整合性がちゃんとあって、スッキリ収まったまま修行は進んでいます。

ときどきうっかりして本音をもらして、相手に気味悪がられたりもしますが、そういうときは「そのうちこの人もきっと気づく日がくるだろう」と思います。

 

ではでは、今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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