【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆47

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、誰が何と言おうと、Open  Secret !なのだ。

 

①読み下し文

夫れ至理(しいり)の道の如きは、諍論(そうろん)して激揚(げきよう)を求め、鏗鏘(こうそう)として以(も)って外道(げどう)を摧(くだ)くに非(あら)ず。仏祖の相承(そうじょう)に至っては、更(さら)に別意無し。

設(たと)い言教(ごんきょう)有るも、化儀(けぎ)の三乗五性、人天の因果に落在(らくざい)す。円頓(えんとん)の教(おしえ)の如きは、又且(またしばら)く然(しか)らず。童子善財は皆な求過(ぐか)せず。

大徳(だいとく)、錯(あやま)って用心すること莫(なか)れ。大海の死屍(しし)を停(とど)めざるが如し。祗麼(ひたす)ら担却(たんきゃく)して天下に走らんと擬(ほっ)す。自(おのずか)ら見障(けんしょう)を起こして、以って心を礙(さ)う。

日上に雲無ければ、天に麗(かがや)いて普(あまね)く照らす。眼中に翳(えい)無ければ、空裏(くうり)に花無し。

道流(どうる)、你如法(なんじにょほう)ならんと欲得(ほっ)すれば、但(た)だ疑を生ずること莫(なか)れ。展(の)ぶる則(とき)は法界(ほっ)に弥綸(みりん)し、収(おさ)むる則(とき)は糸髪(しはつ)も立たず。歴歴孤明(れきれきこめい)にして、未だ曾(か)つて欠少(けっしょう)せず。

眼見ず、耳聞かず。喚(よ)んで什麼物(なにもの)とか作(な)す。古人云く、説似一物則不中(せつじいちもつそくふちゅう)と。

你但だ自家に看(み)よ。更に什麼(なに)か有らん。説くも亦(ま)た無尽(むじん)。各自に力を著(つ)けよ。珍重(ちんちょう)。

 

②私訳

そもそも仏道の真理とは、激昂(げきこう)して議論するためのものではなく、かん高い声をあげて他宗をやっつけるためのものでもない。仏祖が歴代伝えてきた法は、特別のものではなく、ありふれたものだ。

教義は、三乗五性といった様式にすぎず、因果では表現できないものをあえて因果(言葉)に仕立て上げた便宜的(べんぎてき)な手段にすぎない。

いっさい欠くことなく円満に備え、速(すみ)やかに悟るという、円頓の教えはそのようなものではない。華厳経に登場する、よく学んだとされる善財童子でさえ、すべてを学んだわけではないのだ。

諸君、心の扱い方を間違ってはならない。海は死骸(言葉)をそのままにはしておかない。すぐに吞み込んでしまうだろう。それなのに諸君は、その死骸(言葉)を担(かつ)いで天下を走り回ろうとする。自分で認識障害を作っておいて、真実をとらえ損(そこ)なってしまう。

青空の下に雲がなければ、太陽は輝いて下界をあまねく照らすのだ。眼の中に影がなければ、何もない所に花を見ること(幻覚)はない。

諸君、法に近づきたいと思うなら、疑い(思考)を起こしてはならん。

広げれば宇宙にあまねく行き渡り、納めれば髪の毛一本の隙(すき)もない。ありありと照らし出す単独者(真我=仏性=本来の面目)であり、未だかつて途絶えたことがない。

眼にも見えず、耳にも聞こえない。それをなんと呼べばいいのか。古人は言った。「ひとこと言ったら、もう的外れ」と。

諸君、これを自身のなかに看(み)て取れ。これ以上のものは何もない。説きだしたらきりがない。各自で力を尽(つ)くせ。ご苦労さま。

 

現場検証及び解説

 

仏祖が歴代伝えてきた法は、特別のものではなく、ありふれたものだ。

私は、Youtubeの動画「Yuika ご機嫌俱楽部」を好んで観ています。ゆいかさんというのは、自分の体験から非二元の教えを説いているスピーカーさんです。

非二元の教えも仏教も根は同じです。偏見なく学んでいった方がお得であることは間違いありません。そのゆいかさんがある動画で、「ソレ(仏教で言うと、無、仏法、本来の面目)は公然の秘密なんだよ」とおっしゃっていました。公然の秘密とは英語では、Open  Secret ですね。非二元の教えではよく使われている言葉らしいです。

公然と秘密は矛盾していますが、そう表現するしかないのがソレ(禅でもよく這箇・しゃこという言い方をします)なのです。それにしても「公然の秘密」とは言い得て妙です。「すごくあからさまにあるものなんだけど、当たり前すぎて普段全然気がつかないもの」なんですよ。なんか、恐ろしくくどい表現になって、余計に混乱させてしまいそうです。

「今・ここ」という不思議なもの、それが即ちソレなんです。そう言われると「なーんだ!」と思うでしょう。だから、臨済先生も「仏法は特別なものじゃない」とおっしゃいます。そりゃあ、そうです。「今・ここ」を知らない人っているでしょうか?

ソレは誰にでも常にある。だけど、なぜソレ自体をほとんどの人が認識できない、知らないまま生きているかというと、ソレが眼耳鼻舌身意ではとらえられないもの、だからなのです。むしろ、眼耳鼻舌身意の背後を支えるというか、それ以前というか・・・。眼耳鼻舌身意では認識不可能な「生命エネルギーのようなもの」「認識エネルギーのようなもの」なのです(らしいです)。

ありふれてはいる。しかし、眼耳鼻舌身意のどのツールでもとらえられない、だけど、その根に有って、それらを支えているようなもの、なのです。それをダイレクトに知ったのが覚者です。

そう、ダイレクトに知るしかない、ソレをソレとして知るしかないのが、ソレです。未悟の私たちは、ソレを常に他のモノと一緒くたに認識している、のかもしれません。

先にご紹介したゆいかさんは明らかに覚者です。私は覚者ではありませんが、「その人が覚者かどうかはわかる」確者です(笑)。

 

自分で認識障害を作っておいて、真実をとらえ損(そこ)なってしまう。

ソレの認識を邪魔しているのが思考です。この思考を何とかしようと、瞑想修行を続ける日々ですが、汲(く)めども尽(つ)きぬ、という感じでなかなか埒(らち)があきません。ただ、瞑想修行を通じて、思考だけでなく心というものを深く、綿密に知ることができれば、覚醒へのプロセスは必ず進むと信じています。私は理解が大切だという考えです。

また、ソレ(真我=仏性=本来の面目)は常に私たちと共にあるわけですが、それをダイレクトに知るには、待つしか方法はないようです。ソレが私に秘密を明かしてくれるまで待つのです。こちらからソレに向かうことはできません。向かうとかえって逸(そ)れるのです。向かうという「意図」が邪魔になるのです。

道元禅師が「正法眼蔵」で次のようにおっしゃっています。

ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。

「仏のかたよりおこなはれて」というのがポイントです。いろんなことを全部忘れて、全部捨てちゃって、それを継続していくと、仏の方からその姿を現しますよ、ということです。

それが待てないばかりに、こちらの方から追ってしまうのが、修行者の陥(おちい)りやすい罠(わな)なのです。その例を、臨済先生は皮肉たっぷりに語られます。要点は「外に向うな」「言葉に依るな」ということです。

「外に向かうな」と言っておきながら、「内に向かって坐禅などするのもいかん」とおっしゃることもありましたが、臨済先生が強調したいのは、やはり「外に向かうな」の方だと思います。

また、「言葉に依るな」というのは、言葉先行で裏付けのない知識を溜め込むだけの修行、を否定されています。何しろ臨済先生だって、若い頃は秀才で仏教全般を一通り勉強した末、文字だけではダメだと師を求める旅に出られたのですから。

瞑想修行をし、心の観察を行い、その観察結果を書物で「うん、うん、なるほど、そうだよなあ」と確認することは大変良いことだと、私は思います。というか、私はそうしてきました。

 

「示衆」も今回で終わりです。次回からは「上堂」の私訳と解説を行います。読んでくださっている方、いつもありがとうございます。また、お会いしましょう。

 

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