【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆44

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、自己判断の放棄を強いる宗教は大変危険。

 

①読み下し文

你(なんじ)が一念心、祗(た)だ空拳指上(くうけんしじょう)に向(お)いて実解(じつげ)を生じ、根境法(こんきょうほう)中に虚(むな)しく捏怪(ねっかい)す。自(みずか)ら軽んじ退屈(たいくつ)して言う、我らは是(こ)れ凡夫、他(かれ)は是れ聖人と。

禿廔生(とくるせい)、甚(なん)の死急(しきゅう)か有って、他(か)の師子皮(ししひ)を披(き)て、却(かえ)って野干鳴(やかんめい)を作(な)す。

大丈夫の漢(かん)、丈夫の気息を作さず、自家屋裏(じかおくり)の物を肯(あ)えて信ぜず、祗麼(ひたす)ら外に向って覓(もと)め、他(か)の古人の閑名句(かんみょうく)に上(のぼ)り、陰に倚(よ)り陽に博(はか)って、特達(とくだつ)すること能(あた)わず。

境(きょう)に逢(お)うては便(すなわ)ち縁(えん)じ、塵(ちり)に逢うては便ち執(しっ)し、触処(そくしょ)に惑(まど)い起こって、自(おのずか)ら准定(じゅんじょう)無し。

道流(どうる)、山僧が説処(せっしょ)を取ること莫(なか)れ。何が故(ゆえ)ぞ。説に憑拠(ひょうこ)無く、一期(いちご)の間に虚空に図画(とが)すること、彩画像(さいがぞう)等の喩(たと)えの如くなればなり。

道流、仏を将(も)って究竟(くきょう)と為(な)すこと莫れ。我れ見るに、猶(な)お厠孔(しく)の如し。菩薩羅漢は尽(ことごと)く是れ枷鎖(かさ)、人を縛(ばく)する底(てい)の物なり。所以(ゆえ)に文殊(もんじゅ)は剣に仗(よ)って瞿曇(ぐどん)を殺さんとし、鴦掘(おうくつ)は刀を持って釈氏を害せんとす。

道流、仏の得べき無し。乃至(ないし)三乗五性(さんじょうごしょう)、円頓(えんどん)の教迹(きょうしゃく)も、皆な是れ一期(いちご)の薬病相治(やくへいあいじ)す。並びに実法無し。設(たと)い有るも、皆な是れ相似(そうじ)、表顕(ひょうけん)の路布(ろふ)、文字の差排(さはい)にして、且(しばら)く是(かく)の如く説くのみ。

道流、一般の禿子(とくす)有って、便(すなわ)ち裏許(りこ)に向(お)いて功を著(つ)けて、出世の法を求めんと擬(ほっ)す。錯(あやま)り了(おわ)れり。若(も)し人、仏を求むれば、是(こ)の人は仏を失(しっ)す。若し人、道を求むれば、是の人は道を失す。若し人、祖を求むれば、是の人は祖を失す。

 

②私訳

諸君は思考を起こし、思考で握(にぎ)りしめたものを実体だと思ってしまう。六根(眼耳鼻舌身意)からの情報を組み合わせて虚像(きょぞう)を捏造(ねつぞう)してしまうのだ。そして、自分を軽んじ卑下して言う。「俺は凡人だから悟るのは無理。彼は聖人だから可能なのだ」と。

ハゲ坊主め! 何をやけになって、獅子(ライオン)なのに、野干(ジャッカル)のような鳴き声をたてるのか。

諸君はいっぱしの男子だろう。気概なく、背後の本来の面目を認めない。ひたすら外に向かって求め、古人のつまらぬ言句に迷っては、陰の陽のと縁起をかついで悟ることができずにいる。

人に逢うては関係に囚(とら)われ、つまらぬ事にも執着し、行く先々で思い煩い、落ち着きがない。

諸君、わしの言葉を鵜吞(うの)みにしてはならん。なぜか。言葉に確かな拠(よ)り所などないからだ。少しの間、空中に絵を描き、色を塗ってみせ、モノに喩(たと)えて教えるまでのことだ。

諸君、仏を対象物と思ってはならない。ワシの考えでは、対象物としての仏など、便所のようなものだ。菩薩だの羅漢だのという対象物は、手錠(てじょう)のように人を縛(しば)る道具のようなものだ。

だからこそ、文殊菩薩は剣で釈迦を殺そうとしたし、アングリマーラは刀で釈迦に切りつけたのだ。

諸君、仏は「得るもの」ではない。三乗教や五性の教え、円頓一乗の教えも、皆これ一時的な治療薬にすぎぬ。真実の法はそこにはない。

あったとしても、それはアナロジー、表看板、文字の羅列(られつ)にすぎず、仮にそう説いて、諸君に伝えようとしているだけなのだ。

諸君、外に向うなと指示すると、今度は内に向かって努力し、悟りを求めようとする坊主がいる。これも間違いだ。

仏を求めれば、仏を失う。道を求めれば、道を失う。祖師を求めれば、祖師を失うのだ。

 

現場検証及び解説

 

諸君は思考を起こし、思考で握(にぎ)りしめたものを実体だと思ってしまう。六根(眼耳鼻舌身意)からの情報を組み合わせて虚像(きょぞう)を捏造(ねつぞう)してしまうのだ。

禅仏教だけでなく、ヒンズー教、非二元の教えに共通するのは、「思考が問題で、思考さえストップすれば、真実はその姿を垣間見せる」ということだと思います。

眼耳鼻舌身の五根は割と無害です。最後の意(思考)が曲者(くせもの)です。前者の五根からの情報を組み合わせたり、膨らませたり、展開させたりしてしまいます。言わば捏造(ねつぞう)するのです。物語化すると言ってもいいのかもしれません。人間はどうしてこんなふうなのでしょうか。理由はわかりません。

ただ、思考をストップすることが大変困難なことから、この思考の捏造機能は、人間の基本設定、パソコン用語で言うところのデフォルトのような気がします。2600年前、せっかくこの基本設定を解除する術(すべ)を、お釈迦さまが残していかれたにもかかわらず、人間はこの捏造機能をさらに発達させ、社会を作ってきたように思います。

今や人間の頭の中は「捏造だらけ」「妄想だらけ」になってしまいました。そして、さらに人間は妄想の中で遊ぶ傾向が強くなってきています。ITの発達がそれに拍車をかけています。

「思考を少なくして、真実を知ろう」などと考える人は少数派でしょうが、妄想三昧、遊戯三昧、飲み会三昧、仕事三昧の生活に、微(かす)かなハテナを感じている人も多いように感じます。人生を楽しむのは悪いことではありません。でも、人生を本当に楽しむのは難しいことです。

私の人生も、一応世間並というやつで、就職し、結婚し、子育てし、というふうで、それはそれで楽しいこともありましたが、正直言って、心底楽しめていたわけではありませんでした。いつも心の奥底に不安を抱え、それを打ち消すように忙しくしてきたように思います。

瞑想修行をたまたま始めるようになり、ゆっくりとこの捏造機能が見えてくるようになりました。そして、この捏造機能を解除しないと、本当の幸せ、やすらぎは得られないのだと、やがて理解するようになったのです。

捏造機能の解除、言い換えれば、思考を少なくすることは「わかっちゃいるけど、やめられない」ものです。遅々として進まない修行に苛立(いらだ)つこともありますが、これしか本当に幸せになる方法はないと思い定めて、修行を続ける日々です。

 

人に逢うては関係に囚(とら)われ、つまらぬ事にも執着し、行く先々で思い煩い、落ち着きがない。

ああ、私の半生もこのようなものでした。しかし、瞑想修行を続けるなかで、私の内面は、以前よりは穏やかなものになりました。自己申告ですが(笑)。修行が進んでいるかどうかは、家族や職場の人間の評価が頼りになるそうです。弟子の前では覚者然としていても、家族に当たり散らすような人物は、偽グルです。注意しましょう。

上記のような状態から逃れる方法として、臨済先生は「無事であること」を推奨します。私なりにこの「無事であること」を言い換えてみましょう。

「時間に囚(とら)われず、今に集中して生きること。今がどんな状況であれ、それを受容し、楽しむこと」

もうひとつは、「関係」です。

「家族関係、職場関係、社会との関係を必要最低限にする。むしろ受動的であること。積極的に関わることはしない。関係はシンプルに。関係は複雑化しない」

雀鬼こと桜井章一会長が、確か「幸せは軽く触れる程度にしておくこと。掴(つか)んではいけない」とおっしゃっていました。名言です。いきなり雀荘の親父の言葉を持ち出して、意外かもしれませんが、桜井章一会長は麻雀を通じて修行された覚者だと、私は密かに尊敬しているのです。

 

諸君、わしの言葉を鵜吞(うの)みにしてはならん。

真面目な学僧は面を食らったかもしれません。話す本人が「ワシの言うことを信じちゃいかんぜ」みたいなことを言いだすのですから。しかしこれは、言われた言葉をそのまま受け入れるのではなく、自分でよく考え吟味したうえで、良しと思うなら受け入れ、違うと思えば受け入れない、ハテナと思うなら疑問点として残しておけ、ということでしょう。

お釈迦さまにも同じような話があります。うろ覚えですが、次にご紹介します。

「お前たち、私のことを尊敬するからと言って、私が言った言葉をそのまま信じないでほしい。

これが言葉ではなく貴重な金であれば、それが本物か偽物かがお前たちにとって、大変重要なことになる。そのような場合、お前たちはどうする?

その金だといわれているものを、削(けず)ってみたり火に当て溶かしてみたりして、その真偽を確かめるに違いない。

そのように私の教えを扱ってほしい」

すごいですね。お釈迦さまほどの人でさえ、こういうのです。

「わたしのいうこと全部ただしい。わたしの教え信じなさい。そうすればあなたは救われまーす」このようにいう指導者は100%偽グルです。自己判断の放棄を強いる宗教は大変危険です。

 

臨済先生、刺激的は言葉で不立文字のテーマを語ります。最初は「こんなこと言って、いいんだろうか?」と心配になりましたが、慣れてくると「ああ、またやってるなあ」という感じになってきます。

 

仏を求めれば、仏を失う。道を求めれば、道を失う。祖師を求めれば、祖師を失うのだ。

これも毎度のパラドックスで、「求めるという思考、欲望がかえって悟りを遠ざける」ということです。仏教修行の難しさがここにあります。私もここのところをどう乗り越えたらいいものか、日々悪戦苦闘(これも悟りから遠ざかる要因になる(´;ω;`)ウゥゥ)しています。

まあ、正解をありていに言えば、「結果を望まず、一心に修行に励む」しかないのかもしれません。そのような正面突破のような方法しかないのでしょうか。

私は飽きっぽく、持久力もありません。また、イラチ(関西弁でいう短気)です。これは生まれつきそうなので、坐禅をしても矯(た)め直すことは不可能です。待つのは苦手とばかり、毎日目を皿のようにして、ヒントを探しています。そうすると、結構意外な所から道が開けてくる場合があります。

最近では、V・E・フランクルの「それでも人生にイエスと言う」から刺激を受けました。また、新約聖書、マイスター・エックハルトに凝っています。これが大変面白く、参考になるのです。

禅仏教だけでなく、いろいろな分野の本をご自分のセンスで選び、読んでみることをお勧めします。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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