【無門関】やさしい現代語訳・解説 第37則「庭前柏樹」
こんにちは!
今回は、庭の柏の樹、だそうです。
①本則
趙州(じょうしゅう)、因みに僧問う、「如何なるか是れ祖師西来の意」。州云く、「庭前の柏樹子(はくじゅし)」
私訳
趙州和尚に、ある僧が問うた。「仏教の本質とはなんでしょうか」和尚は答えた。「庭にある柏(かしわ)の木だ」
②評唱
無門曰く。若し趙州の答処(たっしょ)に向かって見得して親切ならば、前に釈迦無く、後に弥勒無し。
私訳
もし趙州の答えの意味がわかれば、前に釈迦なく、後ろに弥勒菩薩なく(という具合で、私たちはひとつだという真実がわかるだろう)。
③頌
言無展事 語不投機 承言者喪 滞句者迷
私訳
言葉はソレを説明できぬ。語句は仏と相性が悪い。言葉を捧げ持つ者は失い。語句に滞る者は迷う。
現場検証及び解説
【本則】
「仏とは庭の柏の樹だ」とは、いかにも禅らしい端的な答えです。この訳の分からなさをありがたがる人もいれば、頭を抱えて悩む人もいます。私は後者でした(笑)。
わかってみれば、「なーんだ、そういうことか」という具合で、何でもない、当たり前のことなのですが、禅の提出の仕方があまりにも唐突で無説明なので、私たちにはチンプンカンプンです。
しかし、安心してください。普通の方はわからなくて当然です。以下、懇切丁寧に、誠意つくして説明を試みますので、どうか最後までよろしくお願いします。
この則は、「趙州録」に同じ話が収録されています。岩波文庫にも注にそのことが触れられています。解釈の参考になりますので、私訳を載せておきます。
ある僧が趙州和尚に問うた。「仏教の本質とはなんでしょうか」趙州和尚「庭の柏の樹だ」
その僧は言った。「和尚、境(場所)で人に示すのはやめてください」趙州和尚「ワシは境(場所)で示してはおらん」
僧は再び問うた。「仏教の本質とはなんでしょうか」趙州和尚「庭の柏の樹だ」
こんな感じです。これでもまだ難解ですが、本則よりはヒントがひとつ多いです。境(場所)です。
質問僧は、趙州和尚は仏教の本質を場所で示した、と理解しました。しかし、趙州和尚は「場所で示したわけではない」と否定します。では、何で示したというのでしょうか。禅はいつも言葉足らずです。私が代わりに言葉を補足しましょう。
趙州和尚は、目前の景色を見ている状態、でソレ(仏教の本質)を示したのです。この則の場合は、明らかに目前の庭に柏の樹がある場所で問答が行われています。
趙州和尚は「柏の樹イコール仏教の本質である」と言ったわけではありません。パッと見た状態、我と空気と柏の樹、ぶっ続きのソレ、それを見ている状態、思考が及ぶ以前のありのままのソレに言及したのです。
便宜上、「我、空気、柏の樹」というふうに分けて言いましたが、思考が及ぶ前のソレは「見たまんま」「そのまんま」「ありのまま」です。我という感覚もありません。そこには自と他という分離がなく、ひとつの景色しかありません。そのことを「柏の樹」と表現しました。
もっと端的に言えば、「仏教の本質はコレだ」です。
「柏の樹だ」というのは、実は趙州和尚は言い過ぎている、のです。
趙州和尚は覚者です。覚者に自分という感覚はありません。自分、我、オレ、これらの存在は幻想です。そのことを覚者は確信しています。そうであるゆえに、上記のような「ありのままのソレ」を体感しています。
ですが、質問僧はそうではありません。ここが大きな違いです。では、次に質問僧がどう世界(この状況)を見ているか、たどってみましょう。
趙州和尚が顔を向け「庭の柏の樹」と言ったので、質問僧もその方角を見ました。確かに庭に柏の樹が見えました。
しかし、どうしてその柏の樹が仏法の本質なのか、わかりません。そこで質問僧は、「柏の樹というような場所で、仏法を示すのはやめてください」と言いました。趙州和尚は場所を示したのではなく、「パッと見たソレそのまんま」を「柏の樹」と表現したのですが、その指示は質問僧には通じませんでした。
質問僧はこのように柏の樹を見たのです。確固とした私がいて、その私が柏の樹を見ている。趙州和尚の場合は違います。私は存在しません。ただ、柏の樹が見えるということがある、それだけです。
本当は両者の見え方に何の違いもないのですが、趙州和尚は無我状態でそれを見ている、かたや質問僧は有我状態でそれを見ている、そこが違います。
これを読んでいらっしゃる皆さんも、おそらく自分があるって当たり前じゃん、と考えるだろうと想像するのですが、この点を少し実験的に体験していただけるよう、紙面で誘導してみようと思います。しばらくの間、お付き合いください。
何も考えずに、庭の柏の樹に対していると思ってください。考えてはいけません。虚心坦懐にその場面にあってください。
何を認識していますか?
まず、身体の感じが一番手前に感じられます。皮膚の内側も外側も区別はありません。モヤッとした身体感覚があります。外にいるのなら、風を感じるかもしれません。
その向こうに庭が見えます。
そして、庭のある場所に柏の樹があります。
ただ、それだけです。思考が介入しなければ、このひと続きの光景があるだけです。ここに特別な何かはありません。これが仏教が目指す境地です。何のことはありません。凡夫である私たちだって、ふだん経験している感覚です。
しかし、この光景に思考が必ず介入してきます。一番最初の思考が、「この肉体は特別だ」という思考です。この「オレは特別」という思考に彩られた光景は、趙州和尚の光景とは別ものになってしまいます。私対その他と、まず大きく二つに分かれてしまいます。そして、さらに思考は光景を切り分けていきます。柏の樹は幹、枝、葉・・・というように。それが人間の思考の仕事なのです。
質問僧は認識が少なくとも二つに分かれたところから、「柏の樹」を見ています。だから、それを「場所で示している」と考えてしまうのです。
趙州和尚は「柏の樹」で思考以前の認識を示しました。それはなんの分離もない「柏の樹」のある光景全体です。しかし、二つに分かれたところから出発している質問僧には通じようがありません。
「ほれ、このことが、仏教の本質なのだ」くらいにしておいた方が、誤解が起こらずにすむような気はします。柏の樹などというモノを持ち出したので、余計に話がややこしくなってしまうのです。ちなみに、今モノと表現しましたが、柏の樹はモノではありません。柏の樹は意識です。趙州和尚はモノで示したのではありません。意識で示したといえます。
私たちの世界にモノは存在しません。存在するものはすべて意識です。「そんなバカな!」と思われるかもしれしれませんが、それが仏教の見解、唯識論の立場です。そして、それが真実です。
【評唱】
お釈迦様は過去の大先輩で、弥勒菩薩は未来仏ですので、過去、現在(私たち)、未来と、同じ本来の面目を、私たちは生きているのだぞ、ということです。
【頌】
ここでも、不立文字のテーマが繰り返されます。
私も同じテーマを繰り返します。「言葉で言い難いことを、あえて言うのだから、伝わるように正確に表現しようよ。私はみんなと、このことを分かち合いたいのだよ」
上から目線ではなく、このこと(仏法)をみんなと分かち合いたい、それが私の悲願です。ちなみに、「分かち合い」という言葉は、非二元の教えの覚者、ルパート・スパイラさんからのパクリです(笑)。
この文章が、それに叶うようなものに仕上がっているか、大変心もとないのですが、言い立てるほど仏法から離れそうな気がしてきたので(無門先生の言うことは正しい!)、今回はこの辺で。
第38則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第38則「牛過窓櫺」