瞑想知恵袋 その16【近況報告&日本禅の総決算】①

 

 

こんにちは!

実は、長年修行を続けていたお寺を、2024年4月一杯で離れました。お仕事を頂いていたので、何はともあれ、代わりの仕事を、まず見つけなければならなくなりました。

ハローワークに行き、履歴書を送り、5月中旬現在、連絡待ちという状態です。仕事につけたら、またお寺に戻って修行を再開するのか・・・そこは保留事項です。仕事によっては通えなくなるし、また自分独りで修行を続けるというのもアリかなと、そんなふうに今のところは考えています。

 

近況報告

仏教修行はなんらかの形で続けるつもりです。というか、2008年からほぼ毎日、瞑想は続けていたので、お寺に行かなくなったからといって、急に瞑想を辞められるわけでもないようです。他にやりたいことがないのです。困ったものです(笑)。

 

早朝起きると、珈琲を飲んだ後、自然に瞑想をすることになります。家にある普通のクッションや座布団を使って、狭い部屋の片隅に場所を作り、壁に向かい、坐ります。早い時間なので家族はまだ起きてきません。

日によってまちまちですが、だいたい25分を2回やります。その後散歩に出て約1時間、近くの円山原始林を彷徨い歩きます。途中で朝刊を買います。一度配達を停止した新聞ですが、就活の面接に備えて、新聞でも読んでおこうかという魂胆です。

公園のベンチで一休み。ここでアウトドア瞑想をすることもあります。ここ札幌円山は自然が多く、室内の瞑想とはまたひと味違った瞑想ができます。時間はまあ、25分ですね。再び徒歩で自宅に向かいます。歩きながら慈悲の瞑想(私のアレンジで)をやります。

 

朝食は人がいなければ、ザックリとした「食べる瞑想」で行います。

 

日本禅の総決算

先にお断りしておきますが、以下の文章は、いたずらに日本禅を揶揄するものではありません。真面目に修行し、正直な感想を述べたものです。伝統ある日本禅を、私のような若輩者が批評するだけで、眉をひそめる人もいらっしゃるかもしれません。しかし、もし私が間違っているのなら、面と向かって批判し返してほしいものです。

内容を吟味することもなしに、「批判すること自体が傲慢な態度である」として、陰でコソコソ悪口を言うのは止めもらいたい。そんなことは、お互い何の利益にもなりません。

私の拙い体験と文章が、少しでも今後の日本禅の発展に貢献できたら、それは嬉しいことです。では、始めましょう。

 

日本禅を15年学んだ感想です。

仏教の要の「戒・定・慧」ってありますよね。学ぶ側の印象としては、「定」の比重が大変大きかった。もう、それしか言われないといっても過言ではない。「定」を徹底(これもよく使われた言葉)して行う。そうすれば、サマーデイ(三昧)になり、それがさらに深くなると禅定という状態になる。そこから世間知とは違う智慧があふれ出てくる・・・というような教えと、私は理解していました。

 

修行を始めて5年程経った頃、日本禅の修行に行き詰まりを感じ、テーラワーダ仏教を学びました。学んだ上で日本禅を見渡すと、私に2つの疑問が浮かび上がってきました。

 

① なぜ「戒」の問題を言わないのか? 在家者でも守るべきだと言われている五戒(不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒)について、15年間一度も講話を聞いたことがない。

日本禅では、酒はむしろ豪快に飲むのが好まれるらしく、般若湯(酒のこと)なんて言葉もあるくらい。他の戒にしても、全くアナウンスされないのが現状だ。たとえば、図書室があり、貸し出しもしていたのだが、調査の結果、少なくとも7割以上の方々がルールを守っていなかった。これはルールを守らないわけだから、噓をついていることになり、不妄語戒に反している。

借り出したまま返さない不逞の輩もいる。これは不偸盗戒に当たる。

「あまり固いこと言うなよ」という声も聞こえてきそうだ。

だが、坐禅を真面目にやっていれば、このような事に繊細に気づけるようになり、自ら行いを改められるようになるものだ。そうでない状況を見ていると、つくづく「これって仏教なのか?」と疑わざるをえない。

 

在家者でも、五戒くらいは守るべきだというのが私の考えであり、テーラワーダ仏教でもそう教えているはずだ。少なくとも、守るよう努力すべきだ。守れなかったときは懺悔して、前に進むべき。誤魔化していては絶対に修行は進まない。禅の厳しさは痛い足を我慢することにあるのではなく、人間の普通の欲望を否定しつつ進む、というところにあるように思う。

私見では、五戒は「正気でいなさい」という仏陀の教えのように感じられる。五戒で禁じられている殺戮、盗み、SEX、噓、飲酒はすべて正気を失った状態で行われるものだ。正気を保ち、心を観察する、そして夢の如く妄想している私たちを正気に戻し、真理へと向かう道に誘う・・・。

必ずしも厳密に行われなくとも、もう少し緩めて行う戒もアリ、だと思う。たとえば、先頃亡くなったティク・ナット・ハンがおられたプラムヴィレッジでは、五戒は次のように解釈されています。

不殺生戒:命あるものをむやみに殺さない。

不偸盗戒:人のものを盗み取ることをしない。

不邪淫戒:道に逆らった愛欲を犯さない。

不妄語戒:噓偽りを口にしない。

不飲酒戒:酒に溺れて生業を怠ることをしない。

 

これなら、無理なく守れそうな気がしてきます。

戒は仏教の大事な要素のように感じられます。日本禅はそれを明らかに軽視しています。それでいいのでしょうか?それで、法を継承していることになるのでしょうか?

 

② 「定=集中すること」という理解は正しいのか?

テーラワーダ仏教では、サマタ瞑想というのがあって、これは集中瞑想です。しかし、もう一つ瞑想があり、それがヴィパッサナー瞑想といい、観察瞑想です。テーラワーダ仏教の聖者、アチャン・チャーは「サマタ瞑想だけでは不十分。サマタ瞑想を土台として、ヴィパッサナー瞑想を行いなさい。ヴィパッサナー瞑想で得られた心の観察が智慧となる」という意味のことを法話でおっしゃっています。

日本禅ではサマタ瞑想止まりで、ヴィパッサナー瞑想のことはほとんど指導しない。これでは、瞑想修行は進歩しないのではないか、という疑いを私はもって、テーラワーダ仏教に乗り換えたのです。その選択は今でも正しかったと思います。集中瞑想だけでは、修行は完成しないと思います。

ただ、禅の重要なテキストと目されている無門関や、臨済録にはヴィパッサナー瞑想のことは、ほとんど触れられていません。というよりも、修行の具体的なやり方にはほとんど触れられていません。むしろ、観察瞑想を揶揄するような文言があったように記憶しています。

 

仏陀の言葉には、修行の仕方に対する注意が盛り込まれていますから、中国禅は意図してそのようなものを言語化しなかったのでしょうか。それとも、言語化するまでもなく、修行道場の規矩の中に盛り込まれていたのでしょうか。

 

禅寺に行くと必ず、仏陀の遺言である次の四句が板に墨跡されています。

生死事大(しょうじじだい) 無常迅速(むじょうじんそく) 時不待人(ときひとをまたず) 慎勿放逸(つつしんでほういつすることなかれ)

意味:生き死にの問題は人間にとってもっとも重要な問題だ。

現象は変化し続け、その速度はとても速いのだ。

そのように時は、私たち人間を待っていてはくれない。

だから、注意深く心の観察を続け、それを怠ってはならない。

四句目を仏教学者の権威、中村元先生は「怠ることなく、修行を完成なさい」と訳された(「ブッダ最後の旅」p.158)。しかし、「放逸」とは「心の観察を逸する」ことであり、言い換えれば「妄想に耽って、それに気づかない状態」である。遺言にさえ、修行法が盛り込まれていることに、お釈迦さまの思いがこもっているように感じる。

この四句についての言及が日本禅では、私の聞く限りでは、全くなかった。日本禅の「観察軽視」の傾向がここに見られます。日本禅は坐禅を徹底し、三昧や禅定といった特殊な精神状態をもって、「定」としているように思えます。

 

③苦集滅道の四聖諦は、お釈迦さまの初転法輪の重要な要素です。なかでも重要なのは、「苦」の理解です。「苦」は肉体の苦ではありません。精神的な苦です。しかも、世間一般で言われている楽も「苦」の一種なのです。なぜなら、現象世界は無常(変化する)ので、楽は長い間続くことはありません。楽が消えていくとき、ひとは苦を感じます。「楽は苦の尻尾である」ということです。そのことも日本禅では全くアナウンスされません。「苦」の内容を教えないようでは、仏教理解にはとどかないと言わざるをえません。

 

そして、「苦」の元を探っていくと、エゴに突き当ります。エゴという架空の存在が「苦」のラスボスなのです。このことも、日本禅では全く教えません。坐禅を熱心にやり込めば、自然に気づくということなのでしょうか。

 

まだ、日本禅に物申したいことはありそうですが、今回はこの辺でお開きにしたいと思います。

以上、今後の修行の道筋を見極めるための私のメモのようなものです。

言葉には気をつけたつもりですが、もし、日本禅に関わる方々に不愉快な思いをさせたようでしたら、深くお詫び申し上げます。

では、また、お会いしましょう。

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2024 All Rights Reserved.