瞑想知恵袋 その33 期待は失望の母

 

 

こんにちは!

 

さあ、そろそろネタが尽きてきました。みなさんに何か伝えたい気持ちだけが空回りしています。

「期待は失望の母」というタイトルを付けてみました。最近では、同じようなことをToutubeでスマナサーラ長老がおっしゃっていました。切れ味鋭い解説で、「そうだよなあ」としみじみと理解できました。「期待(執着)が大きいと人間はうつ病になる」という言葉も、元うつ病患者の私には、グッとくる箴言でした。

そうなのです。自分をあまり偉い人だと思わない方がいい。カッコも付けない方がいい。余計な見栄やプライドを捨てて、ただの生命体だと思っちゃえば楽になる。心の底からそう思えたら、と思います。

 

自力で発見したことは宝になる

自力で気づいたことは確信となり、その後の修行に大きな影響を与えます。毎度つたない経験、つたない言葉ではありますが、私自身の経験を語ってみようと思います。

通っていた禅寺は臨済宗でしたので、坐禅があるときは、師家との公案問答が毎回のようにありました。公案問答とは師家から問題を与えられ、それを個室で師家に向かって言う、それに対して師家はダメ出しするか、通す(合格させ、次の問題を与える)のです。

「室内のことは他に漏らすな」という不文律がありますので、詳しい内容はお伝えできないのですが、私が問題とするのは、内容ではなく公案問答をするときの修行者の気持ちです。

誰しも坐禅中に一生懸命に答えを考えて(正確には考えるでなく、拈定・ねんてい、というのですが)、師家の前に参上するわけです。「そうだ!」と言ってもらい、合格させてほしい。だけど、そう簡単に公案問答に通ることはまれです。1、2ヶ月同じ公案で毎日「ダメ出し」されることもあります。聞くところによると、ひとつの公案に1年とか10年かかった・・・という人もいるらしい。

禅が好きな方は、長くかかったことを、禅の厳しさ、素晴らしさの象徴のように言います。一方私は「ダメ出し」されると気分が悪くなりました。特に「これで間違いない!」と思って参禅したら、「違う!」と言われると落胆は激しい。私だけではなく他の参禅者も終わった後の表情が硬いときは「あ、ダメだったのだな」とわかる。ウキウキと飛ぶように戻ってくるときは、「あー、通ったのだな」とわかる。

そこで私は参禅待ちしている間に考えたのです。「今私は参禅の順番が来るのを待っている。そのせいで緊張状態にある。なぜ、緊張するのか? 参禅そのものは数語、師家と言葉を交わすだけだ。問答に通るか通らないか、それを私は予め恐れている。もう少し突っ込んで考えてみると、師家に認められたいという気持ちがある。しかし、認められない可能性も高い。その揺れの中に気持ちがあるから、苦しいのだ」と。

さらにもう一歩進んで言うと「認められたいという気持ちがなければ、緊張も苦しみも落胆もないはずなのだ!」

これは、私にとっては大きな気づきとなりました。人生の他の場面でも、すべからく上記の法則が成り立つことに理解がいたりました。

 

人生に期待するとひどい目に遭う?

たとえば、好きな女の子を食事に誘ったとする。そして、婉曲に断られます。ガッカリしますよね。でもこれが、男友達、あるいは身内だったら、それほどダメージは受けないのではないでしょうか。ということは、前者のケースは「期待が大きかった」後者の場合は「期待はそれほどでもなかった」ということです。

仏教がしきりに「執着をなくしましょう」というのは、露骨な言い方をしてしまえば「人生に期待するな」ということです。これは、世間一般で言われている生き方と全く逆のことです。世間はうるさいくらいに、次のようなフレーズをまくしたてます。

「夢は実現する」「努力して勝ち取ろう」「頑張って達成しよう」「自己実現しよう」「個性をもとう」等々。

ですから、そのような一般常識的な見方からすると、仏教は人生を否定的にとらえているとか、暗い考え方だ、ということになってしまいます。しかし、それは違います。真実は、ちょっと冷静になって心を観察してみれば、簡単にわかることです。それを怠って、一般常識に習って生きている方々が仏教の表面だけを見て、誤解してしまうのです。

 

新春放談・大瀧詠一さんの言葉

その後、期待しないで参禅するようになると、格段に気が楽になりました。また、師家から威圧感を常に感じていたのですが、その後、その威圧感なるものも、自分の意識が勝手に作り出した仮想現実だということに気づき、しだいに薄れていきました。

「期待は失望の母」この言葉は、山下達郎さんと大瀧詠一さんのラジオ新春放談で、山下さんが大瀧さんのファンを代表し、「アルバムを出しませんか・・・」との質問に、大瀧さんはぼそぼそっと「期待は失望の母と言うからねぇ」とおっしゃった言葉を思い出して、タイトルに使わせてもらいました。

大瀧詠一さんは、多くの人に期待されながらも、新譜アルバムを出さずに早世されてしまいました。あまりにも早い死に驚いたファンも多かったでしょう。しかしながら、大瀧さんの新アルバムをぜひとも聴きたいというファンは少なかったように思います。少なくとも、私は大瀧さんのファンでしたが、とっくの昔に諦めていました。大瀧さんが期待させなかったからでしょう。

 

直観したことは言葉では伝わりにくい?

ところで、この気づきに興奮して、仲間に教えなければと思い、上記のようなことを熱を込めて語ったのでしたが、仲間はむしろキョトンとしていて、私の熱意ほどには反応がなく、拍子抜けしました。

理解は突然私の中に現れました。それをしかと捕まえるべく、私は言葉にしてそれを他人にもわかるように翻訳しました。言葉を使えばこの大発見が仲間にも伝わるはずだ、と思っていました。が、そうでもなかったようです。

この手の気づきは直観のようなもの、ダイレクトにその人間に湧くもので、それを言葉で他人に伝えることは案外難しいのかもしれません。

しかし、このブログを読んでいるあなたなら、きっと「ああ、あれね、そうだよなあ」と共感してくれると思って書いてみました。いかがだったでしょうか。

 

では、今回はこの辺で。

 

 

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