【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆45

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、謙虚に勉強。傲慢にご注意を!

 

①読み下し文

大徳(だいとく)、錯(あやま)ること莫(なか)れ。我れ且(しばら)く你(なんじ)が経論(きょうろん)を解(げ)することを取らず、我れ亦(ま)た你が国王大臣なることを取らず、我れ亦た你が弁(べん)の懸河(けんが)に似たることを取らず、我れ亦た你が聡明智慧(そうめいちえ)を取らず、唯(た)だ你が真正の見解(けんげ)を要(もと)む。

道流(どうる)、設(たと)い百本の経論を解得(げとく)するも、一箇(いっこ)の無事底(ぶじてい)の阿師(あし)には如(し)かず。你解得すれば、即ち他人を軽蔑(けいべつ)す。勝負の修羅(しゅら)、人我(にんが)の無明(むみょう)、地獄の業を長(ちょう)ず。

善星比丘(ぜんしょうびく)の如きは、十二分教を解すれども、生身(しょうしん)にして地獄に陥(おちい)り、大地も容(い)れず。如かず、無事にして休歇(きゅうけつ)し去(さ)らんには。

飢え来たらば飯を喫(きっ)し、睡(ねむり)来たれば眼を合す。愚人(ぐにん)は我れを笑うも、智(ち)は乃(すなわ)ち焉(これ)を知る。

道流、文字の中に向(お)いて求むること莫れ。心動ずれば疲労し、冷気を吸うて益無し。如かず、一念縁起無生にして、三乗権学(さんじょうごんがく)の菩薩を超出(ちょうしゅつ)せんには。

 

②私訳

諸君、間違ってはいかん。

たとえ諸君が経論に通じていても、それをワシは認めない。諸君が国王、大臣であったとしても、それをワシは認めない。諸君が弁舌達者であっても、それをワシは認めない。諸君が聡明、智慧者であっても、それをワシは認めない。ワシが認めるのは、真実を理解した者だ。

諸君、たとえ百冊の経論を理解する者も、一人の無事の者にはかなわないのだ。

学問に長(た)けると、他人を軽蔑しだす。誰にも負けるものかと醜い争いをしだす。自我(思考)の監視がおろそかになるから、精神的苦しみはかえって増す。

善星比丘はすべての経典を理解していたが、生きながら地獄に落ち、大地にさえ身の置き場所がなかった。

物事に巻き込まれず、思考を使わずに過ごすのが良い。腹が減ったら飯を食い、眠くなったら寝てしまう。愚かな者はワシを笑うが、智者にはこれがわかるのだ。

諸君、文字の中に真実を求めてはいかん。思考を使えば疲労し、概念が増えるばかりで、良いことはない。

思考が起こっても、やがて消え去るものと知り、ガリ勉菩薩モードを超えていくのが正しい道だ。

 

現場検証及び解説

 

学問に長(た)けると、他人を軽蔑しだす。誰にも負けるものかと醜い争いをしだす。自我(思考)の監視がおろそかになるから、精神的苦しみはかえって増す。

これは言い得て妙という感じがします。仏教だけでなく、宗教を学ぶに当たって大切なことは、謙虚であるということだと思います。

ネットで「謙虚」を調べてみると、いいこと言っているなあ、という文章に出会いました。引用させていただきます。●時間を守る。●約束を守る。●あいさつをていねいにする。●批判にも感謝する。●何事にも寛容でいる。●人の話を真剣に聴く。●常に勉強する。

なかなかのものです。

これの逆が、傲慢(ごんまん)です。「謙虚」の要点を裏返していくと、傲慢な人間が出来上がります。私も修行を始めた頃に、知らず知らずのうちに傲慢になっていた時期があります。そのとき自覚はもちろんなかったです。自分が傲慢になっていると気づけば、自制できます。

瞑想修行を数年続け、仏教の知識も増えてくると、周りの人たちに押し付けがましく自分の考えを訴えたのです。もちろん嫌がれましたし、ひどいしっぺ返しを食らいました。

今振り返ってみると、知識が頭で止まっていて、身についていなかったように思います。だから、聞いた人が嫌味に感じたのだと思います。知識を増やすこと自体は悪いことではありません。

が、それが往々にして自慢として発揮されたり、他人への軽蔑として発揮されたりするものです。そういうとき、発心(仏法を学ぶ動機)の部分で間違っている、動機に不純なものが混じっていたりする場合があるので、そこのところを真摯に見直してみるといいと思います。

自己反省は苦しいものですが、それをしないと仏教は学べません。それを避け、勉強ばかりしていると、いよいよ傲慢になっていくばかりです。そういう意味で、仏教修行は恐ろしいものです。ひとつ間違えると、とんでもなく傲慢な人間になってしまいます。

もうひとつ、上記の臨済先生が語られているのは、他人との競争です。これは、是非とも仏教修行においては避けなければいけないテーマです。集団になった場合、男子は必ずと言っていいほど、競争し始めます。これは男子の性(さが)でしょうから、仕方ないことかもしれません。ですが、この競争意識が自覚されないまま発揮されてしまうと、無意味なマウント合戦になってしまい、仏教理解からは遠ざかります。

また、周囲の修行者の態度を非難し始める人がいます。これも一種の軽蔑、優越感の現われです。人間はそうなりやすいし、これも修行のプロセスなのかもしれませんが、反省が起こらないままでいると、修行はここで停滞してしまいます。

他人をうまく批評できても、自分の力量は少しも上がりません。このことをよく考えてみてください。他人のことは一切放っておいて、自分の修行だけを一心にやりましょう。スマナサーラ長老やラハナ・マハルシもそう言っています。

このポイントに気づけるかどうかも、「自我の監視能力」「気づきのパワー」「繊細な観察能力」にかかっています。日々の瞑想修行でその力を養っていきたいものです。

 

物事に巻き込まれず、思考を使わずに過ごすのが良い。腹が減ったら飯を食い、眠くなったら寝てしまう。愚かな者はワシを笑うが、智者にはこれがわかるのだ。

無事(ぶじ・私訳は物事に巻き込まれない)という語が何度も登場します。臨済先生の教えの核心部分だと言っていいと思います。しかし、この言葉も一筋縄ではいかないものがあります。続く文章を読むと「無事とは怠けること」のようにも思えます。

鎌倉時代の名僧、明恵上人の遺訓(いくん)に似た文章がありますので、少し長いですが、それを一緒に鑑賞して今回は終わりにしましょう。

 

我常に志ある人に対して云(い)はく、「仏になりても何かせん。道を成(じょう)じても何かせん。一切求め心を捨てはてて、徒者(いたづらもの)に成り還(かえ)りて、兎(とに)も角(かく)も私にあてがふ事なくして、飢(うえ)来(きた)れば食(しょく)し、寒(かん)来れば被(かぶ)るばかりにて、一生はて給(たま)わば、大地をば打ちはづすとも、道をうちはづす事は有るまじき」と申すを、傍(そば)にて人聞きて、さては徒者に成りたるがよき事ごさんなれと、我も左様(さよう)にならんと思ひて、飽くまで食し、飽くまで眠り、或るは雑念に引かれて時を移し、或るは雑談を述べて日を暮らし、衆(しゅう)の為(ため)に墓無(はかな)き益(えき)をもなさず、寺の為(ため)に仮にも扶(たす)けにならず、明けぬ暮れぬと過ぎ行(ゆ)きて、我こそ何もせずして徒者に成りぬれと思はば、是は畜生のいたづら者に成り還りたり。

(岩波文庫より)

徒者とは、無為の人というような意味でしょうが、これも誤解する奴が、いつの時代もどこの国でも居たのでしょう。明恵上人も嘆(なげ)いていますが、臨済先生の無事も誤解を生みやすい言葉だなあと思います。

別の言い方はないのでしょうか。

 

今回は力尽きたので(笑)、この辺で。また、お会いしましょう。

 

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