瞑想知恵袋 その22【「自由への道」(アジャシャンティ著  ナチュラルスピリット)精読】⑤

 

 

こんにちは!

日本禅を離れ、フリーの瞑想修行者になってはや1か月、我がことながら「一人で大丈夫かなぁ」と思っていたのですが、習慣というのは恐ろしい(この場合は素晴らしいか?)もので、朝起きて「だるいなぁ」と思いつつ、気がつくと坐禅の格好をして坐っている・・・。

その他、暇なせいもあるが、歩く瞑想、慈悲の瞑想などもする。散歩に出て、途中でベンチで一休み、そこで手動瞑想をまた25分・・・という具合で、修行に対する意欲は今のところ失っておりませんです、はい。

 

前置きはこれくらいにして、私が今後の師として選んだアジャシャンティの文章を、ご一緒に読んでいきましょう。

「自由への道」は、行動を呼び起こすもの、すなわち実行するものです。あなたを完全に元の状態に戻すという行為です。この教えを実行しなければ、つまり、それを学び、恐れることなく生かさなければ、変革をもたらす効力はありません。「自由への道」は、信念体系ではありません。実行に移すべきものなのです。(略)

この本を傍観者として読むならば、要点を見逃すでしょう。傍観者でいることは、気楽で無難です。真理への目覚めに積極的に専念することは、気楽でも無難でもありません。

厳しい言葉ですね。

日本禅は、本格的な僧堂の修行はかなり厳しいものらしいですが、私が通っていた坐禅会は一般人向けのものでしたから、全く厳しさはありませんでした。しかし、毎日のように坐禅会はありましたから、毎日しようと思えばできる環境ではありました。

ただ、警策(けいさく・眠気を覚まさせるのに平たい板のむち打つ)があるわけでもなく、ゆるく坐る人、しっかりと坐る人、短時間・長時間と様々でした。

臨済宗なので公案問答もあります。熱心な人は毎日のように参禅するし、そうでない人もいる。よく言えば自由、悪く言えば、放ったらかしでした。

私が一番困ったのは「自分が進歩しているのかどうかわからない」ことでした。公案問答が道しるべになるかと思いきや「公案がとんとん拍子に通ったからといって、境地(これもようわからん言葉ですが)が上がったわけではない。そういうは梯子禅といって、ダメなんだ」というようなことを、しきりに言われたりする。じゃあ、その代わりになる目標・道しるべを提示してくれるかと言えば、それはない。

また、日本禅は難解であることを誇らしげに語ります。人物も、書物でも、「どうじゃ、わからんじゃろう」という顔をされる。そうすると、未熟な修行者は黙らざるをえません。質問できる雰囲気ではありませんし、質問しても納得のいく説明はありませんでした。わかったような、わからんような・・・それこそが禅なのでしょうか? 私は違うと思います。

そういう不誠実な態度に、だんだんと気持ちは冷めていきました。日本禅のなかで私は迷子になったが如くモヤモヤ、イライラしていました。そこで、以前から読んでいたテーラワーダ仏教の指導者、スマナサーラ長老の著書を本格的に読んでみることにしたのでした。

いやー面白かった! 仏教ってこんなに面白いんだ、とすっかりハマってしまいました。日本禅のように難解なところは少しもないし、理性的、合理的な説明で、ほとんど理解できる内容でした。

それからは隠れテーラワーダ仏教徒として、禅堂をお借りしているつもりで、坐禅会に通ったのでした。

素晴らしい禅堂でしたが、そこに通っているというだけでは、おそらく本当の進歩は望めません。何かしら工夫しながら、「こんなやり方でいいのだろうか?」と迷いつつ、確かなものを探し求めていく・・・。そのような探求者としての姿勢が必要なのです。

 

さて、アジャシャンティの言う「教えの実行」とは何のことでしょうか。本文に詳しくは書かれていませんが、私は「慈悲喜捨」かなと思います。以下、テーラワーダ仏教のサイトを参考にしながら、私なりにまとめてみました。

慈は慈しみ。「みんなと仲良く」ということです。

悲は、悲しい気持ちではありません。「憐れみの感情」です。「共感能力」と言ってもいいかもしれません。また、「かわいそう」という感情で終わらず、自分のできる範囲で援助します。

喜は、「人と共に喜ぶ」ということです。他人が喜ぶ姿を見て素直に喜ぶことが、私たちにできているでしょうか。どこかで嫉妬して、うわべだけの微笑みを浮かべてはいないでしょうか? たとえ嫌いな人の幸せでも、喜べる人になりたいものです。なかなか難しいことですが・・・。

捨は「執着心を捨てる」ということです。生きていれば人はいろんな感情を起こし、それにとらわれます。怒り、哀しみ、喜び・・・。しかし、この世は無常です。刻一刻と状況は変化していきます。感情へのこだわり、つまり執着は物事がスムーズに流れていくことを阻む傾向があります。

エゴが出しゃばらないようであれば、感情はやがて自然に消えていくでしょう。

 

アジャシャンティは、「ただ坐禅を組むだけではなく、ただ教義を学ぶだけではなく、学んだことを社会の真っ只中で、試してみなさい」と言っているように聞こえます。失敗することもあるでしょう。それは仏教の理解が至らないせいです。そのことを痛感することが起こるかもしれません。いえ、起こるでしょう。私はそうでした。

真剣に取り組めば取り組むほど、結果が期待するほどでなければ(たいていそうなのですよ)、落胆することも多いかもしれません。しかし私は、そこが修行の肝心なところだと思うのです。そこでめげてしまって、修行から遠ざかってほしくないのです。微々たる努力でもいい。続けてほしいのです。そしてできれば、失敗から学んだことをフィードバックして、次の修行に生かしていく、それが理想的な修行のあり方だと思います。

アジャシャンティも言っているように、傍観者でいることは気楽で無難です。もし、あなたが坐禅修行が楽しくてしょうがないのなら、ただの能天気な仏教学者さんか、甘ったれのおねだり教信者さんなのです。

仏教修行は厳しい。だから、この道を歩み出せば、苦しくて当たり前です。苦しいから、やめて俗世間に引き返すのか、踏みとどまって地道に修行を続けるのか、それはあなた次第です。

私も苦しいし、ときどき迷子になり、どうして修行を続ければいいのか、わからなくなります。だから、こうしてブログを書いて、ある意味では、自分を励ましているのです。お付き合いくださっている方々にも、何かのヒントがここから得られるようであれば、大変嬉しいのです。

 

つづく。

 

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