瞑想知恵袋 その13【「禅 空を生きる」アジャシャンティ著 太陽出版ー感想文②】
こんにちは!
前回の続きです。私の読書メモのようなものですから、わかりにくかったり、つまんなかったりするかもしれませんが、よろしかったらどうぞ流し読みしてみてください。
アジャシャンティの悟りは本物です。
●幸せになるためにはどうしてもこれが必要だと考えるのは、悪夢もようなもの。
コメント「そうですね。人生は残念ながら、自分(と考えている者)の思い通りにはなりません。むしろ、起こってくることを受容し、それを楽しむという流儀でやる方が正解のように感じられます。
私もずいぶんと人生をコントロールしようとして苦汁を舐めるような思いもしましたが、今では、それもまた真理への道しるべだと思えるようになりました。幸せにすら執着しない方がいいのかもしれません」
●真理は隠されていないのに見逃されてしまう奇妙さ。
コメント「本当に何のためにこんなことになっているんだ! という気がいたします。ヒンズー教では『神のリーラ』つまり『神の遊戯』だと言われています。私(エゴ)ら神のオモチャなわけね・・・」
●「自己を知ること」はつまり今にいること。リラックスすること、無理に知ろうとしない姿勢からそれは可能になります。
●思考停止とは、経験と親密になること。
●問題の99%は、すべてのことを一方的な見方に閉じ込めることから起こる。
●「怖れ」という感覚を、観念を通して発見するのと、体験を通して発見するのとでは、全く違う。
コメント「観念的理解というのは『対岸の火事』を見るようなもの。もし、あなたに怖れ感覚が起こったら、『火事の現場』から逃げずに、じっくりと観察してやってください。それが著者の言う体験だと思う。
嫌な気持ち、不快感、怒りなどなど、マイナスの感情、感覚に出会ったら、学びのチャンスだと思った方がいい。ついつい、目をそらしがちになるそれら、にとどまり観察する勇気を持ちたいものです」
●中庸(ちゅうよう)とは、スピリットとモノ(マター・物質)の調和のこと。
●スピリットとモノとは別のものではなく、一つのものの二つの側面。
●肉体や車や花と同様に、感覚や感情もモノなのです。
コメント「英語のmatter、マターには物質の他に事柄という意味もあり、そういう意味で著者は『感覚や感情もモノ』と言っているのだろうか? それとも肉体や車や花と同様に感覚や感情も、スピリットが現出させるモノとして同列に扱える、ということだろうか? だとしたら、たかが想像、たかが夢とは言えなくなりそうです」
●あなたの予定表を手放し、自らをさらしつづけなさい。そうすれば調和は自然と生まれるでしょう。
コメント「私が一番苦手なことです。私は、常に未来の計画表を持ち、せっかちにそれをこなしていくタイプの性格なのです。未知のものを怖がり、予め『どんなものか』知りたがります。坐禅中も『終わった後の仕事の段取り』などしてしまうこともしばしば。『いかんなあ』と思えど『やってるね!』と明るく気づいて、放っておきます」
●あなたの固執しているものが、あなたに完全なる認識が生まれることを妨げているものです。
●自由だと感じられないとき、あなたは何らかの考えや記憶にしがみついている。
●多くの人にとって自己意識の書き換えはOKだが、自己意識を「取り外す」のはタブー。
コメント「私は20数年前にうつ病になり、精神科医のもとでカウンセリングを受けたことがあります。今になって思い出せば、カウンセリングの過程は『行き詰り、崩壊を怖れる自我をケアし、徐々に別の自我に乗り換えさせる』ような行為だったと思います。
それはまるで壊れかけた家を慎重に補修し、落ち着くのを待って本格的な改修工事をやるようなものでした。
しかしながら、真実は『守るべき自我などどこにもない』のでした。私はお世話になった精神科医のM先生に大変な恩義を感じていますが、今にして思えば二人して架空の自我(プライド)を必死になって守っていたのでした。
仏教はもっと根本的な解決を目指すものです。『自己意識を取り外す』ことを目標にしているわけですから。
うつ病が小康を得てから、仏教に出会えたのは私にとって大変幸運だったと思います。
しかし、自我(ここでは自己意識と同じ意味で使っています)、つまりエゴは、とても認識しづらく、一度消えたと思っても、ゾンビの如くよみがえってきます。それに、密かに隠れるのが忍者並に巧妙なのです!
エゴを知らずして仏教を修することなし、と私は断言します」
●すべてを手放すことへのためらいを捨てるとき、あなたの本質が気づかれ、その気づきから本質を生きることが始まります。さらに本質を生きることが始まると、人生は自然に流れるように動き出します。
コメント「何を手放すべきかの判断・気づきの力がいりそうです。そして、手放す勇気・・・。無理には手放せないものもありそうです。そのときが来たら、自然に手放せる、そのようでありたいと切に願います」
では、今回はこの辺で。まだ、続きます。