【臨済録】やさしい現代語訳・解説 上堂11
こんにちは!
今回は、そうか、黒子が犯人だったのか!
①読み下し文
上堂(じょうどう)。僧問う。如何(いか)なるか是(こ)れ第一句。
師云く、三要印開(さんよういんかい)して朱点側(しゅてんそばだ)つ、未(いま)だ擬議(ぎぎ)を容(い)れずして主賓(しゅひん)分かる。
問う、如何なるか第二句。
師云く、妙解豈(みょうげあ)に無著(むじゃく)の問を容れんや、漚和争(おうわいか)でか截流(せつる)の機に負(そむ)かん。
問う、如何なるか是れ第三句。
師云く、棚頭(ほうとう)に傀儡(かいらい)を弄(ろう)するを看取(かんしゅ)せよ、抽牽都来(ちゅうけんすべ)て裏(うち)に人有り。
師又云く、一句語に須(すべか)らく三玄門(さんげんもん)を具(ぐ)すべく、一玄門に須らく三要を具すべくして、権(ごん)有り用(ゆう)有り。汝等諸人、作麼生(そもさん)か会(え)す。
といって下座す。
②私訳
臨済禅師上堂の際、ある僧が問うた。
「禅の第一句とは何ですか」
臨済禅師「紙に印を押して開くと、朱色の形が現れる。思考が関与する前に、すでに主客に分かれているのだ」
僧はさらに問うた。
「禅の第二句とは何ですか」
臨済禅師「ワシの微妙な見地は、どうして無著(むじゃく・人名)の問いを受け、答えることができようか。しかし、方便としての言葉は、観念の流れを断ち切るだけのはたらきはしている」
僧はさらに問うた。
「禅の第三句とは何ですか」
臨済禅師「舞台で人形が遊ぶように、個我と肉体が活動する様子をよく観察してみなさい。それらが動くのはすべて裏で動かす者、つまり真我(本来の面目=無依の真人)がいるのだ」
さらに臨済禅師は言われた。
「それぞれの一句には、すべて三玄の門が備わっていなければならず、一玄の門にはすべて三つの要が備わっていなければならない。それでこそ、力のある方便となりえ、効果もあるのだ。あとは諸君がそれをどう受け取るかだ」
と言って演壇を下りられた。
現場検証及び解説
難解です。このブログは、岩波文庫、入谷義高先生の訳注を参考にしながら、私見を述べていますが、この項には入谷先生ですら不明な言葉が含まれています。
三要と三玄です。要は「かなめ」玄は「奥深い道理」という意味ですが、何の説明もないので、ハッキリしたことはわかりません。入谷先生によれば「臨済の禅法の核心を三点に収斂(しゅうれん)させた暗示であろう」ということです。
なので、大変不十分ではありますが、理解の範囲内で私見を述べさせていただくことにします。
第一句。「紙に印を押して開くと、朱色の形が現れる。思考が関与する前に、すでに主客に分かれているのだ」
「紙に印を押す」という比喩で、認識の在り方を示しています。
以前、白スクリーンとその上に映る映像のたとえをお話ししました。復習すると、白スクリーンが「真我=仏性=本来の面目」で、これは眼耳鼻舌身意の認識機関ではとらえられません。常に一般人には無視されています。一般人はスクリーン上の映像に心を奪われます。
これを上記の臨済先生の言葉に当てはめてみましょう。
紙が白スクリーンです。その紙に認識対象が触れます。それが「印を押す」という行為で暗示されています。印が紙から離れると、朱色の形が現れます。これが私たちの認識です。
ここまでは納得できるのですが、次の文章がうまく吞み込めません。あるいは異論があります(畏れ多いことですが)。
「思考が関与する前に、すでに主客に分かれているのだ」
私の考えによると、「思考が関与してはじめて主客(認識の主体と対象)に分かれる」ので、意見が食い違います。
仏教では、人間の認識の窓口を六つに分けており、それが「眼耳鼻舌身意」です。私見によれば「眼耳鼻舌身」の五識までは、世界はひとつなのです。そこに意(思考)が関与して初めて、主客に分かれるのだと、私は思うのです。
しかしながら、臨済先生はその前に分かれているとおっしゃっいます。納得いきません。
私から見れば、原文の「未容擬議主賓分」の「未」が邪魔です(笑)。「擬議を容れて主客に分かる」なら、しっくりくるのですが。あるいは「未」は間違いで、ここに違う字が入ったとしたら・・・。ここは「?」の付箋をつけて先に進むことにいたしましょう。
あ、そうそう「三要」にも付箋です。
第二句。「ワシの微妙な見地は、どうして無著(むじゃく・人名)の問いを受け、答えることができようか。しかし、方便としての言葉は、観念の流れを断ち切るだけのはたらきはしている」
前半の文章は「不立文字」を言っています。後半は意訳すれば、次のように言っているものと思われます。
「不立文字とはいえ、全く言葉を発しないで教授することはできない。仮の手段として言葉を使う。相手(学僧)の観念の流れを断ち切るために、言葉を使うのだ」
そのため臨済先生の言葉(あるいは所作)は、会話の流れからすると奇妙な印象を与え、相手をギョッとさせるような効果をもっているのです。
第三句。「舞台で人形が遊ぶように、個我と肉体が活動する様子をよく観察してみなさい。それらが動くのはすべて裏で動かす者、つまり真我(本来の面目=無依の真人)がいるのだ」
この句は、巻頭のアイキャッチ画像を見ていただくと、イメージしやすいかと思います。
人形浄瑠璃の画像です。舞台が在って、そこで人形が演技して物語が進行していきます。しかし、操(あやつ)り手(黒子)がいてこそ、人形は動きます。黒子がいなければ、人形は動きません。
臨済先生は、人間も人形浄瑠璃と同じなのだぞ、と言っています。自分(自我・個我)とその肉体が動くのは、自分で意図して動かしているのではなく、裏で動かしている人がいるからだ、と言います。
「人」と擬人化して臨済先生は言いますが、本当は擬人化するのはまずいのです。「人」とすると、肉体をもった仏様のような存在を、どうしてもイメージしてしまいますから。
コレは人でもなく、者でもない。コレとかソレと言っておいた方がいいものなのです。実際、禅の用語にもコレ、ソレに当たる言葉があります。「這箇(しゃこ)」「那箇(なこ)」です。
そして、さらに言い添えておくと、操り手はひとつです。私たち個人(あるいは、生物すべて)は無数にありますが、それを裏から操っているモノはひとつなのです。
だから、「真我=仏性=本来の面目」を複数ととらえてはいけません。単数なのです。ソレが「一(いつ)なるもの」「ワンネス」などと呼ばれるのはそのためです。
臨済先生は別の項で、同じもののことを「赤肉団上に出入するもの」と表現されています。この言葉で私は「ああ、そういうことか・・・」とやや疑問を感じながらも、イメージしたものです。何か肉体を出入している「エネルギーのようなもの」が想像できたのです。
「エネルギー」と言ってしまうと、「量に換算されるもの」になってしまうので、「何かの力であることは確かだが、認識しえぬ(したがって、量に換算しえぬ)もの」という意味で「エネルギーのようなもの」と、とりあえず言ってみています。
ただ、覚醒したってソレは「言葉では言い表せぬモノ」らしいので、いずれにしろ無駄な抵抗なのでしょうが(笑)。
「三玄」も不明であるため、付箋といたします。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。