【臨済録】やさしい現代語訳・解説 行録6

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、黄檗、臨済、首座を巡る話。

 

①読み下し文

師、一日、僧堂前に在って坐す。

黄檗の来たるを見て、便(すなわ)ち目を閉却(へいきゃく)す。黄檗乃(すなわ)ち怖るる勢(せい)を作(な)して、便ち方丈に帰る。

師随って方丈に至って礼謝す。首座(しゅそ)、黄檗の処に在って侍立(じりつ)す。黄檗云く、此の僧是れ後生なりと雖(いえど)も、却(かえ)って此の事(じ)有ることを知る。

首座云く、老和尚、脚跟(きゃくこん)地に点ぜず、却って箇(こ)の後生を証拠す。黄檗自ら口上に於いて打つこと一摑(いっかく)す。首座云く、知らば即ち得(よ)し。

 

②私訳

臨済はある日、僧堂前で坐っていた。黄檗が来るのを見て、目を閉じた。黄檗は怖じ気づいたように、自室に戻った。臨済はそれに続いて部屋に入り、失礼を詫びた。首座が黄檗のそばに控えていた。

黄檗は首座に言った。

「この僧は若いが法をわかっておる」

首座は言った。「和尚、地に足が付いておりませんぞ。このような若造を印可なさるとは」

黄檗は自分で自分の口を拳骨で叩いた。

首座は言った。「おわかりなら結構です」

 

現場検証及び解説

 

臨済の坐相(坐禅の形)が凄かったのか、それとも「目を閉じた」というところに何かを感じたのか、黄檗和尚が何を怖がったのかよくわかりません。また、この一連の出来事から、なぜ「この僧は若いが法をわかっておる」の見解が出てくるのか、テキストからは全くうかがい知ることができません。要するに臨済のポテンシャルはそれほど凄かったのだ、と言いたいのでしょうか。

臨済の黄檗に対する態度も微妙です。何も失礼なところがないのに、黄檗を追いかけて詫びています。兄弟の関係ではなく、師弟の関係のように見えます。テキストの順序からすれば、臨済はすでに黄檗和尚とブラザーの関係なはずなのに、このテキストに関する限り、そうではないかのようです。

いくつか証拠があります。臨済のことを「後生」と呼んでいます。これは一番最初のテキスト(行録①参照)と同じです。首座が登場するのも同じ。黄檗和尚に対等にものが言える人物像は、臨済に黄檗和尚への参問を薦めた首座と重なります。

編纂の過程で、時系列が前後してしまったのかもしれません。あるいはこうも考えられます。覚醒して黄檗の道場に戻った臨済ですが、僧としての身分は低いままです。元の道場で生活するうち、最初の覚醒状態がやや鳴りを潜め、元の師弟関係に逆戻りした。あり得るケースです。

このような境地の揺り戻しは実際にあると思われます。ヒンズー教の覚者の言葉にあったように思います。出典がはっきりしたら、また、お知らせします。

 

もうひとついきましょう。上記のものと登場人物がダブります。また、内容にも近似性があります。

 

①読み下し文

師、堂中に在って睡(ねむ)る。黄檗下り来たって見て、拄杖(しゅじょう)を以って版頭(はんとう)を打つこと一下(いちげ)す。師、頭(こうべ)を挙げて、是れ黄檗なることを見て、却って睡る。黄檗、又版頭を打つこと一下し、却上間(のちじょうかん)に往(ゆ)いて、首座(しゅそ)の坐禅するを見て、乃(すなわ)ち云く、下間(げかん)の後生、却って坐禅す、汝這裏(しゃり)に妄想(もうぞう)して什麼(なに)か作(せ)ん。首座云く、這の老漢、什麼(なに)をか作(な)す。黄檗、版頭を打つこと一下して、便ち出(い)で去る。

 

後に潙山、仰山に問う、黄檗僧堂に入る、意作麼生(そもさん)。仰山云く、両彩一賽(りょうさいいっさい)。

 

②私訳

臨済はある日、僧堂で居眠りをしていた。そこへ黄檗が来て、拄杖(しゅじょう・禅僧が行脚のときに用いるつえ)で禅堂の木版を一打ちした。

臨済はちょっと顔を上げ、黄檗を見て、また寝てしまった。

黄檗はもう一度木版を一打ちして、上座に向かい、坐禅している首座に言った。

「下座の若僧がしっかり坐禅しているのに、なんだお前は妄想ばかりして!」

首座「このオヤジ、なにを企(たくら)んでる!」

黄檗は木版を一打ちして、出ていった。

 

後に潙山が仰山に問うた。

「黄檗が僧堂に入ったときの出来事はどういうことだろう」

仰山「振った賽の目、どちらも当たり(臨済と首座)」

 

現場検証及び解説

 

この項は正直言って、ハッキリとはわかりません。「わかったような、わからんような」ものが多い禅の解説、皆さんにはそのような思いはさせたくない、と固く誓って始めたブログですが、私の力不足です。わかる範囲で解説していきます。また、どこがどうわからないか、一緒に検討していきましょう。

まず、前項でも述べましたが、黄檗と臨済がまだ師弟関係の頃の話なのか、兄弟関係になってからの話なのか、ハッキリしません。

黄檗の姿を見たのに、再び寝入ってしまうふてぶてしい態度は、兄弟のように思えます。しかし、臨済を「後生」と呼んでいます。これは未悟時代の呼び方を継いでいるようにも思えます。参問を薦めたと思われる首座が登場するのも、同じ時期を連想させます。しかし、特定はできません。

また黄檗が、なぜ臨済の態度を認めたのかわかりません。坐禅中寝るのがいい、などということではないはずです。首座への小言も奇妙です。寝ている臨済のことを「しっかり坐禅している」と評価し、普通に坐禅中(と思われる)の首座を「妄想ばかりしている」と決めつけます。

師家は弟子と生活を共にしています。全体を見て指導に当たっていたのでしょう。もし、私がこの道場に居て、この三人と修行を共にしていれば、この黄檗の態度もわかったのかもしれません。しかし、このテキスト内の情報のみで、何か言おうとすると、どうしても作り話になってしまいます。それよりは、付箋を付け、?マークを付けておく方が無難です。修行が進めば、あるいはわかるかもしれません。

首座の「このオヤジ、なにを企(たくら)んでる!」の言葉がポイントなのかもしれません。黄檗の一連の行動は、二人への評価というよりも、策励(さくれい)に近い何かととらえるべきなのかもしれません。

また、今思いついたことで、当てずっぽうに過ぎませんが、臨済覚醒後の話だとすると、つじつまが合ってきます。つまり、寝ている(修行をさぼっている)が覚醒した奴は認める。臨済のことです。覚醒はまだ(未だ妄想激しく)だが一心に修行する者も認める。首座のことです。

木版の一打は「大いに励め」ということかもしれません。そう考えると、黄檗の一打一打も、力強い肯定や策励に聞こえてきます。

 

潙山と仰山の会話は、それを裏付けているのではないでしょうか。

 

最後にひとつ付け加えると、これまでの首座が同一人物だとすると、この人物はなかなか好感をもてます。自分より後輩で、しかも年下だと思われる臨済の才を認め、黄檗に参問するように仕向けています。また、臨済が絶望しているときに、黄檗に口添えしたのもこの人物。普通後輩に才能のある奴を見つけると、嫉妬心から意地悪するケースが多いですが、それがない。立派です。

また、黄檗が浮かれすぎると、やんわり注意する。黄檗も彼の助言に素直に従います。そのような人物だけに、何とかしてやりたいとの思いもあったのかもしれません。上のテキストは臨済への策励というよりも、この首座への策励ととらえると、スッキリ理解できるのかもしれません。ただ、惜しいのは覚醒が起こらず、名を残せなかったことです。

覚醒が起こる起こらないは、実は本人の努力や能力と関係がないようです。そのことを話しだすと、長くなりますので、また、別の機会にします。

 

では、今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

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