瞑想知恵袋 その11【馬祖道一の謎の遺言「日面仏、月面仏」】

 

 

こんにちは!

前回に引き続き、禅語に新しい光を当ててみたいと思います。

今回取り上げるのは、碧巌録第3則の馬大師不安(ばだいしふあん)です。こんな話です。

 

馬大師は病気でした。そこに寺の執事がやってきてこう尋ねます。

「ご容態はいかがですか」

それに対して馬大師は「日面仏、月面仏」と答えました。「にちめんぶつ がちめんぶつ」と読みます。

 

うーん、何のことかわかりませんね。ネットで調べてみました。「臨済禅 黄檗禅 公式サイト」に解説が載っていました。

それによると、日面仏は千八百歳の寿命、月面仏は一日一夜の寿命とのこと。そこから転じて「生きるもよし、死ぬもよし」と泰然自若として、そう言い切ったのだ、と解釈されています。これで納得される方もいらっしゃるかもしれませんが、私は長い間「ナンノコッチャイナー」と不審に思っておりました。

ところが、非二元の教え(ノンデュアリティ)の覚者、ルパート・スパイラの本を読んでいて、はたとひらめいたのです。次にその文章を引用します。話しているのはルパート・スパイラ自身です。

 

闇夜には、太陽は世界の対象物を見ることはできません。太陽にとっては、あるのは空(くう)を照らす自らの光だけです。夜には、月だけが世界の対象物を見、知ることができます。しかし、月が対象物を見、知る光は、太陽のものです。

言い換えるなら、対象物は月に照らされ、見られ、知られており、太陽に見られ、知られているわけではないのですが、同時に、それらは太陽の光とともに見られています。

 

以上です。

もちろん、ルパート・スパイラは天文学を論じているわけではありません。

意識の光について、比喩を使って説明しているのです。月の光は、個我の認識の光です。私たち個人は対象物を認識します。それは、個我の認識の光が対象物を照らすからです。しかし、その光は個我(月)が発している光ではありません。真我(太陽)が発している光が個我(月)で反射し、反射した光が対象物を照らすのです。このような生命の認識構造のことを、ルパート・スパイラは言っています。

この文章を読んだとき、馬大師の「日面仏、月面仏」のことを思い出しました。ひょっとして、同じことを馬大師は言おうとしたのではないか、と。私なりの意訳を挙げてみましょう。

 

「本来の面目たるワシ、個人としてのワシ」

ということです。本来の面目は、仏性、真我、ワンネス、一なるもの、と呼びかえても同じです。

もう少し言葉を付け足すと「自分が本来の面目たる存在(太陽)であることを知ってはいる。しかし、個人的な存在(月)としてはこのざまだ(おそらく苦しい)」という含みをもたせて、「日面仏、月面仏!」と言ったのだと想像するのです。

泰然自若としていたのだ、というのは禅僧の臨終場面として、確かにカッコイイとは思います。しかし、たとえそうでなくとも、馬大師の境地は大したものだと思います。自分の本性を知って、死んでいったのですから。

 

ここからさらに連想して、鈴木俊隆老師の臨終の場面を思い出しました。鈴木老師はアメリカのサンフランシスコで禅を教え、当地で亡くなった曹洞宗の禅僧です。

鈴木老師がベッドに身を横たえ、苦しい息の中、臨終の時を迎えようとしてしていました。弟子が心配そうに顔をのぞき込むと、老師はこう言ったそうです。

「案ずるな。ワシは自分が何者かを知っている」

これは明らかに「日面仏」を知っている、ということです。死ぬときは誰にとっても苦しいものだそうです。一方、私たち一般人が一番恐れているのは、自分がどうなるかわからない、何処へ行くのかわからない、という不安ではないでしょうか。苦しみと不安の中で、普通の人は混乱しながら死んでいきます。

ただ、自分が何者か知っている、自分が何処へ行くのかも知っている状態なら、苦しみはあったとしても、不安はおそらくないでしょう。ちなみに、「何処へ行くのか?」という質問に対する答えは「何処へも行かない」です。

碧巌録当則の「馬大師不安」というタイトルも、中国人特有の諧謔(かいぎゃく)、ちょっとしたユーモアのようなものに感じられます。

 

知的理解ばかりが先行し、なかなか「日面仏」を実感できない私ですが、残りの人生をかけてチャレンジしていきたいと思います。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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