瞑想知恵袋 その30 「成り切る」より「距離を置いた観察」

2024/09/16
 

 

こんにちは!

 

今回は、修行初期の第一の気づきについてお話します。

一般的に、坐禅を初めて最初に気づくのが、自分の頭の中がけっこう思考でいっぱいである、ことです。ときどき「私は何も考えていない」「考えながら歩くことはない。そんなことをしたら歩けない」などという人がいますが、そのような人はおそらく、単に思考に気づいていないだけ、だと思います。

坐禅(瞑想)をして初めて「ああ、こんなにも考えが頭の中を去来しているんだ!」ということに気づくのです。

 

クズな思考がなぜやめられない?

私もそうでした。そして、次にこの思考をなんとか止めようとしました。なぜなら、それらはどうでもいい思考だったからです。坐禅中は坐禅に集中して「何も考えない」ことを目指しますが、気がつくと「今日の仕事の段取り」を頭に思い浮かべている・・・。

有益な考えではありませんし、それが後に役に立つこともない、そんなクズ思考をなぜ坐禅中にしなくちゃならないのか。自己嫌悪に陥りました。

今考えても仕方がないことなのになぜか思考が浮かんできて、ふと気がつくと思考に巻き込まれてしまっている。もしくは、考えに耽ってしまっている。それが「わかっちゃいるけど、やめられない♪」のです。

この思考が問題であることはわかりました。そして、私の持病のうつ病とも関係していることが、次第に明らかになってきました。「なるほど、そうか、考えても仕方がないマイナス思考を、頭の中でリフレインしてしまっている」それでは気分が悪くなるのも当然です。

原因が突き止められたのだから、必ずや思考をストップさせ、病気とおさらばしようと決意を新たにしました。坐禅堂に入る前に「今日こそは、思考をストップさせ、一言もつぶやかせまい」と誓うのですが、時間が終わり坐禅堂を後にする際には、「今日もダメだったか・・・」と幾分気落ちして仕事に向かうことになります。

そんなことを続けているうちに、いい加減嫌になってきました。「オレにはやっぱり無理なのかなあ」「やり方が足りないのか、それともやり方が間違っているのか」と悩んだりもしました。

うまくいかなかった理由のひとつは、あとに述べるように、観察に慈悲がないせいでした。

 

思考を見ているのは一体誰?

そして、ある日の早朝、坐禅堂に向かう途中でした。考えるともなく、次のような考えが起こりました。

「オレはいつまでも思考を止められない」「いや、ちょっと待てよ、でも、その思考を確認している者はいったい誰なんだ?」「あ、そうか、オレは思考ではない。思考を観察しているものが本当のオレだ。いやいや、本当のオレかどうかわからないが、少なくとも、思考=オレではない」「オレでないものをオレがなんとかできるのだろうか?」「『我思うゆえに我あり』とデカルトは言ったそうだが、思考がないときも我は存在するのではないか?」

そんなことを、ボンヤリと考えました。しかし、自力で考えたことは、実感を伴いますから、手ごたえを感じました。

 

思考からの分離がむしろポイントなのでは?

私の修行の始まりは、禅でしたから「成り切る」ということを、よく言われました。「坐禅中は坐禅に成り切る」「掃除中は掃除に成り切る」「排便中は排便に成り切る」挙句の果てには「酒飲みたいなら、酒飲みに成り切れば、戒(不飲飲戒)を犯していないのだ」という屁理屈まで聞かされました。

ですから私が「思考から距離を置き、思考を観察する拠点をまず作るのだ。まず思考からの分離が大切だ」と自説を述べたら、ある人に「それでは成り切っていないことになる。坐禅と一体化することにならない」と反論されました。

どちらが正しいやり方なのか、その成否はともかく、禅ではそれほど「成り切る」ことが強調され、また、それが何なのかハッキリしないまま、修行の根幹として修行者に受け入れられていました。

私はこの「成り切る」ということが最後までしっくりせず、受け入れられずにいました。まず、ハッキリと定義されないまま、なんとなくみんなそう思っている。質問し、それについて議論しない、質問してもハッキリ答えない、そういう日本人的状況がまかり通っていました。

私は「成り切る」より「離れて観察する」だろ、と思いながらみんなに混じって修行している異端者でした。

 

思考の観察には慈悲をお忘れなく

私が坐禅という言葉に躊躇し、ときどき瞑想と言い換えるのは、「成り切る」という状況に不信感を抱いているからです。私が強調するのは最初に掲げた「思考からの分離」です。それに続く「思考の観察」。しかし、「思考の観察」は間違ったやり方でやると、大変苦しいことになります。

ポイントは思考を悪者扱いしない、ことです。自分の中の不良少年を暖かく見守るつもりで、気長にやるといいのではないでしょうか。スピリチュアスピーカーの「悟リリさん」は観察プラス「慈悲をもってそれをやってください」とおっしゃっていました。その通りだと感じました。

そして、うまくいけば、思考がなくなるというより、思考が遠くに感じられるようになるかもしれません。遠くで何かブツブツ言っているが、邪魔にならない。完璧な瞑想状態ではないかもしれませんが、思考との距離もちょこっと意識してみてはどうでしょうか。

瞑想中、思考が起こるのは全然問題ないのです。それと一体化して、思考に耽ってしまう(一体化してしまう)状態がまずいのです。

 

では、今回はこの辺で。

 

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