瞑想知恵袋 その20【「自由への道」(アジャシャンティ著  ナチュラルスピリット)精読】③

 

 

こんにちは!

今回は本文の「はじめに」を読んでいきます。前回は「序文」でした。「序文」の後に「はじめに」があるのはちょっと妙な気がしますが、まあ、いいでしょう(笑)。

前回は、なんだか私の自己主張が前面に出てしまったように思います。暑苦しかったでしょう(笑)。気をつけて進めていきます。

 

スピリチュアルな解放とは、目覚め、悟り、自己実現と呼ばれることもあり、あるいは率直に言うと、絶対的な真理とはどんなものかを味わうことです。

この「味わう」というのが肝心なところです。私は、「目覚め」の骨格みたいなものは、読書とちょっとした気づきを得て、ある程度はわかっているつもりなのですが、「目覚め」を体験したことはない、つまり味わったことがないのです。それが、なんとも悩ましいところ(´;ω;`)ウゥゥ

たとえば、北海道名産のいくら丼、素晴らしく美味しいものです。しかし、食べたことがない人に言葉で説明することは大変困難です。でも、いくら丼の美味しさを、わからせるのは簡単です。瓶詰でも送ってあげればいい。

「目覚め」も同じことなのですが、「目覚め」の瓶詰は売っていません。なんとか味わいたいものだと、日夜努力しているつもりなのですが、「目覚め」は訪れてはくれません。やはり私には無理なのでしょうか。かといって、快楽を追求するだけの普通の生活にも戻れない、一般の人が喜ぶことに興味がもてない・・・。

さて、愚痴っぽくなってしまいました。先に進みましょう。

 

悟りとは何かと憶測するのは無駄なことです。(略)指針となる原則としては、何が真理かを憶測することよりも、絶対的に真理ではないものは何かを着実に実感していくことのほうがはるかに重要です。

未悟の人間にとって悟りは未知のものです。未知であるがゆえに、かえってその詳細がどんなものか、知りたくなります。しかし、アジャシャンティはそれは無駄なこと、と言います。

では、逆に真理ではないものとは、どこで判別するのでしょうか。「真理ではないもの」というよりは「真理を妨げているもの」と言った方が、わかりやすいかもしれません。

「真理を妨げているもの」とは、エゴ、マインド(条件付けられた思考)、個我です。ややこしいので、今後これらのことを「エゴ」と表記することにします。

エゴは観察瞑想によって、その実態と形成過程が明らかになります。ですから、観察瞑想の経験のない方、瞑想初心者には「え、なんのこと?」という印象をもたれるかもしれません。私も坐禅(初めは観察瞑想すら知らなかった)を始めてから数年を経て、やっとエゴの実態が少し観察できるようになったほどです。

観察瞑想の経験がない方に、エゴの話をしても、上手く真意が伝わりません。そのような方々は、エゴが自分だと思っています。エゴとの密着度が強く、エゴの対象化が不徹底なので、言い方が強烈で申し訳ないのですが、エゴの奴隷のような状態でいるのです。

ですから、「真理を妨げているもの」はエゴである、という話をすると、たいていの場合は、その方のエゴを起点に反論がかえってきます。それはたいていの場合、理屈っぽいものです。なぜなら、エゴは理屈が大好きだからです。理屈こそエゴといってもいいくらいです。

その理屈を並べ立てている思考に注目して、ある一定の期間観察してほしいのです。そうすると、私の言っていることが、わかってきます。理屈が悪いわけではありません。その理屈を綿密に調べつくしてほしいのです。本当にその理屈は正しいのでしょうか。本で読んで、誰か(権威の人)に聞いて、自分で確かめもせずに、そう思い込んでいることは、意外に多いものです。

それを、観察瞑想によってさらけ出し、いちいち検討し直してみることが大事です。

エゴのなんたるかを、観察瞑想によって明らかにしないかぎり、仏教は絶対に理解できません。それほどエゴの理解は必須なのです。ここを省略して仏教はありえません。ところが、エゴについて言及されることは、日本仏教では稀です。なぜなら、エゴな醜く、それを語ることは、聴衆に嫌な気分を起こさせることになるからです。そこで多くなるのが、毒にも薬にもならないような「ほっとする、ありがたいお話」です。

自分の心の観察も同じ効果をもたらします。観察の結果、不愉快な気分になるのです。しかし、それは観察が上手くいった結果なのです。私も同じ憂き目に遭い、苦しい思いをしました。

そして、自分の了見が悪いからだ、と反省をしてしまった。これは不味いやり方です。エゴは等しく醜いもので、エゴは自然に発生するように設計されているのです。だから、こういう場合、自分を責めることだけはやめてください。人間なら多かれ少なかれ、同じ状態なのですから。

冷静に、感情的に巻き込まれずに、科学者の如く客観的に、自分の心を観察するのです。そうすると、じわじわわかってきます。また、エゴの働きも徐々に弱まってくるはずです。

残念ながら、観察瞑想に即効性はありません。気長に地道にやるしかないのです。

 

多くの人は、人生の最大の疑問に対して答えを与えてくれるのがスピリチュアルな教えの役割だと思っています。しかし、実際はその逆です。いかにすばらしいスピリチュアルな教えも、その第一の目的は、あなたの疑問に対する答えを出すのではなく、あなたの答えに対して疑問を投げかけるのです。あなたの認識を歪めているのは意識的、そして無意識的な思い込みや信念です。

坐禅を始めた頃のことを思い出します。私も自分の性格を「ガラッと変えたい」というような、一種の変身願望があったことを認めます。仲間の言葉の端々からも、そのような願望はうかがえました。しっかり者がよりしっかりするために、坐禅会にくることは稀です。気弱な方が自分を何とかしたいと思って、禅の世界にやってくる。気持ちは痛いほどよくわかります。

しかし、憧れの人物像を前に置き、それに向かって頑張るという方法は、100%失敗します。なぜなら、スピリチュアルな教え、仏教の教えはそのようなものではないし、そもそもあなたは別人にはなれません。全く効果がないわけではありません。

上手く伝わるかどうか心配ですが、こう言ってみましょう。

あなたは、あなたのままで(欠点をも含めて)、よい人間、穏やかな人間になれます。それが仏教修行の到達点です。

しかしその前に、アジャシャンティが言うように「あなたの思い込みや信念」を認識し、疑い、検討し直し、修正する必要があります。ここでは、一応合理的なプロセスとして描写してみせましたが、時には、長い苦しみの後のコペルニクス的転換のように体験されるかもしれません。

要するに、昆虫が幼虫から成虫に脱皮するときのような、苦しみを伴う認識の変化が起こるかもしれません。それは、真我からは好ましいことですが、エゴからは都合の悪いことなのです。当然のこと、エゴは抵抗します。周囲からの抵抗もあるかもしれません。生活環境の中で、自分の心の中で、2つの勢力が争います。これは苦しいことです。

スピリチュアルの道、仏道はそうたやすいものではありません。そのことをアジャシャンティは充分承知した上で、この本を書いていることは、ひしひしと伝わってきます。

 

長くなりましたので、続きは次回。ではでは。

 

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