瞑想知恵袋 その10【新説「好雪片々別處に落ちず」】

 

 

こんにちは!

今回も、前回の【道元禅師の「眼横鼻真」の真実】に引き続き、禅語の新解釈を述べてみようと思います。

私は漢文の素養もなく、坐禅修行もド素人な人間です。たまたま、禅寺に通い、禅の文献から離れ、勝手気ままにテーラワーダ仏教、ヒンズー教、非二元の教えなどの本を読みふけり、再び禅の文献に戻ってみると、不思議なことに「ああ、こういう意味か!」とわかるものもあったのです。

そのことを誰かに言ってみたくて、この文章を綴っています。禅の大家から見れば、中途半端な修行者が勝手なことを言っているように思われるかもしれませんが、どうぞ寛容にお見逃しくださるようお願いいたします。

 

今回取り上げるのは「好雪片々別處に落ちず」です。「こうせつへんぺん、べっしょにおちず」と読みます。碧巌録(へきがんろく)の第42則にその話が載っています。単純な話ですが、禅ならではの難解さを秘めています。

次に内容を簡単に説明いたします。

 

禅関係者がそろって家屋から外に出たら、雪が降っていた。ホウ居士(こじ・在家の禅の修行者)が、その空中の雪を指さして言いました。「好雪片々別處に落ちず」。直訳すれば、「これらの雪はみな別の場所に落ちているのではない」でしょうか。もちろん、周囲の修行者に問答を仕掛けているのです。それに対して禅僧が受けてたち(あるいは、仕掛けに気づかずに)、「いずこにか落在する」と問いました。すると、ホウ居士はこの禅僧に平手打ちをしました、というお話。

 

全く奇妙な話で、意味不明もいいところです。ネットで調べた限りでは「降る雪はすべてしかるべき所に落ちていく。別に変わった所に落ちていくわけではない」というような説明です。そう言われても、なんだかピンときません。欲求不満が募ります。

 

それが、あるときハッとわかったのです。「これは無空間のことだ!」と。

「これらの雪はみな別の場所に落ちているのではない」を言い換えてみましょう。「これら雪はすべて同じ場所に落ちている」ということです。距離を考えなければ、空間という概念を呼び起こさなければ、つまり思考がない状態であれば、すべての雪は私(つまり、ここ!)にしか落ちないのです。

 

皆さんの住んでおられる土地には、いま雪は降っていないかもしれません(ここ札幌は3月現在、雪を見ない日はありません)。それでは、雨でもいいのです。道路脇に立って、ボーっと雨を眺めていると思ってみてください。足元に落ちる雨粒も、道路を挟んで歩道に落ちる雨粒も、同じ私というディスプレイの上に落ちているのではないですか?

ここのところ、わかりにくいかもしれませんが、眼耳鼻舌身意の最初の五感「眼耳鼻舌身」だけなら時空間はないのです。意(思考)が介入してきたときだけ、時間が現れ、空間が現れるのです。このことは、「無思考状態で気づく」という簡単な方法で確認できます。もちろん、瞑想修行の初心者の方は難しく感じられるかもしれませんし、腑に落ちないかもしれませんが、それが真実です。

 

私も最初に無空間のことを知ったのは、書籍からでした。「頭がない男 ダグラス・ハーディングの人生と哲学」(マンガ形式の本、ナチュラルスピリット)のP139に、ダグラスが星に定規を垂直に当て、「定規は点に収縮する。距離がない!星は私の中にある!」と感嘆する場面があります。このときは、何のことかわかりませんでした。

また、確かインドの覚者、ラマナ・マハルシが帰依者に答え、「あなたは、鉄道や航空機で、ここからイギリスまで移動するとする。しかし、空間を移動しているわけではない。あなたがいるのは常にここだ」というようなことを言っていた気がします(出典が不確かですみません)。そのときも、「そうかなあ。こうして手を伸ばせば空間があるのは、自明のことのように思われるがなあ・・・」と納得がいきませんでした。

 

しかし、あるとき「あ、そうか、空間という概念がないときは、空間はないのだ!」と思い当たったのです。目の前の景色がまずあって、後から空間概念(思考)が網の目のように被さったときに初めて、空間という幻想が起こるのです。逆に言えば、思考が働いていないとき、空間はないのだ、と。同時に上記の「好雪片々別處に落ちず」という禅語が思い浮かび、自分なりに解釈ができたのです。

 

今回、これを書くに当たって、禅語の元となる碧巌録第42則を読んでみて、自分の解釈が間違ってはいないと確信しました。ホウ居士が平手打ちしたのは、単に暴力を振るったわけではなく、「ここだ!」と指し示したのです、まさにダイレクトに!

「降る雪はすべてしかるべき所に落ちていく。別に変わった所に落ちていくわけではない」という解釈では、後に続くホウ居士の奇妙な行動が説明できません。

また、「しかるべき所に落ちていく」という解釈も、運命論のように聞こえますし、日本的な情緒にくるまれた心地よい人生訓のようにもとれますが、申し訳ありませんが、「結局は何が言いたいのかわからない」と私には感じられます。

禅は即今については何度も問答していますが、即此処(そくここ)についての問答は少ないように思います。この則はそういう意味では珍しいのかもしれません。

 

私の解釈が正しいかどうかの判断は、皆さんにゆだねることにいたします。日本の禅を尊敬している方々には、大変失礼な物言いになってしまったかもしれません。癇に触ったら、どうかお許しください。

 

では、今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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