うつ克服の努力が、只管打坐を妨げていたんじゃよ

 

なぜ1円にもならないのに、毎日坐禅に通うのか?

ハイ、こんにちは!

私もなんとか元気に、瞑想修行に励んでおります。今、修行は楽しいですね。うん、楽しい。だから、やらしといたら、いいんじゃないかなあ、この調子で。人間、うまくいっているときは、あんまり、疑問を発しないもんで。「なぜ、坐禅なんかしてるんだろう?」とか思わない。そう考えるときは、うまくいっていないときなんですね。何度かそういうこともありました。連れ合いに「なんで、1円にもならないのに、そんなに熱心に毎朝坐禅に通うの?」と言われ、絶句したこともある。そこ、1銭って言って欲しかった! そしたら、ファンタジーで済ませられたのに。1円はリアル過ぎる! 確かにね、稼ぎ悪いのに、坐禅なんかやってる場合か? 新聞配達でもして家計を助けたほうがいいんでない? というのももっともな話だ。もちろん、カミさんもそんなつもりで言ったんじゃないんだろうけどね。しかし、こっちも負い目があるから、そうだよな、なんでこんなに一生懸命にやってるんだろうなー、あんまし進歩してないみたいだし・・・。そんな感じで落ち込んだ。それから、もう一つ白状しておくと、「うつ病克服」という目標が僕のなかにあって、それが坐禅に大きな影を落としていたんですね。坐禅を始めてしばらくたってから、坐禅やっている以上、うつ病の薬(正確にいうとセパゾンという安定剤)は必要なくなるはずだ、と思っちゃったんですね。ところが、そうはならなくて、疲れからか、なんなのかわからないけど、うつの症状がときどきでる。具体的に言うと、食欲不振に陥る。うつじゃない、別に不安を感じているわけじゃない、と自己判断するんだけど、元に戻らない。仕方なくセパゾンを飲んでみる。食欲が戻ってくる。やっぱり、うつだったのか、と坐禅の効果を疑い、落ち込む。そんなことを何度か繰り返していました。しばらくするとセパゾンは不要になるのですが、うつとキッパリ縁を切ることができないわけでして、そんなときは本当に情けなく、「ああああああ、俺ってダメなやつうううう」と、今から思えば必要以上に悩んでいましたね。10年過ぎた頃でしょうか、また、うつ=食欲不振がやってまいりました。最初は「うつじゃない」と絶対に認めたくないわけです。こんなに毎日坐禅して、また、精魂込めて修行に打ち込んでいるのに、進歩していないなんて到底思えないし、思いたくない。だから、薬は飲みたくない。だけど、なんだか変だ。症状が悪化してくる。飲むべきか、飲まないべきか、それが問題だ。飲めばうつを認め、坐禅の効果がないことを認めることになる。悔しい。だけど、一方で症状は苦しい。板挟みになった。なんでこんな苦しい思いをせにゃならんのだ。もっと気楽に生きたいよ。いっそ坐禅をやめちまったらどうだろう? 10年以上坐禅をやってて、こんな程度なんてカッチョ悪すぎる、恥ずかしい。やめっか? 楽になるぞ・・・。そんな自問自答をしました。だけど、そのとき心がこういった。やめたくねーって。???・・・そうか、だったら、薬を飲んで、カッチョ悪くても、なんでもいいから、坐っとけ。結果なんかでなくてもいいから、楽しんで坐ればいいじゃん!と。

 

水平に追う身振りが、垂直にチュドンと坐ることを妨げていた

翌日から、気らーくに坐禅するようになりました。すると、不思議なもんですよね。力が抜けていい感じで坐禅できるようになったんですよ。作り話じゃないですよ、ほんっとそうなんだから。結局、こういうことだったんですよ、単純なこと。自分の前に目標を置いて、それに向かって頑張る。頑張ることに関しては、何の根拠もなく、いいことだって思いこんでいたから、疑わなかったんだけど、ホントはそいつが、その身振りが坐禅を邪魔していたんですね。これに長い間気づけなかった。いいかえると、達成しよう、達成しようと水平に追うような身振りが、垂直にチュドンと坐ることを妨げていた、ということかなあ。でね、そんとき思ったんですよ。ああ、これが只管打坐ってやつじゃない?って。ただ、何にも望まず、坐れってこと。逆に言えば、望み心を持って坐禅すると失敗するぞと。ただ坐ってろっていったって、こっちはなんとかなりたいと思ってやってんだから、なんだよ、その言い方、ちょっと冷たいんじゃない、と思ってたけど、そうじゃないんだ。これは道元禅師の有り難い忠告だったんだ。今の自分に満足せず、イケテル親父になろうとして、ガツガツ坐禅なんかやってる、そういうのがいっちゃんダメなんだぞ、と。普通の自分を受け入れて、普通に生きるカッコ良さに目覚めた。例えば、オリンピックで選手が「楽しもうと思います」なんてコメントをよくするけど、あれは結果を気にしすぎると、パフォーマンスが充分に発揮できないことを知っているからだよね。コーチも期待している、ファンも頑張ってーと声援を送る、マスコミもあおる、自分だって勝ちたい。でもねえ、そんな考えの中でプレイするって、結構キツイと思いません? オレなら、キツイなあ。だから、リラックスしようとして、楽しもうって彼らはいうんじゃないかしら。それをわけのわからない親父が「日の丸背負ってんだ、真面目にやれぇ!」なんて無責任にいうんだよね。お前こそ、昼間っから酒飲んでくだ巻いてんじゃねえってんですよ。結果を狙いすぎるとかえってうまくいかない。かといって結果を出す方向にはもっていきたい。スポーツ選手なら誰しもが陥るジレンマじゃないかなあ。ま、ともかく、只管打坐って僕にとっては謎めいた言葉だったんですが、しんどい思いをして、自力でわかったことは、大きな自信になりました。

 

要するにリラックス! これが大きなポイントです。

さあさあ、私の自慢話はこれくらいにして、坐禅、というか瞑想の大事なポイントを、お伝えしておきたいと思います。要するにリラックスです。リラックスが人間のパフォーマンスをアップさせます。とはいえ、だらけてやるのとは訳が違います。ほど良い緊張とリラックス、そのバランスが難しい。前項で「何かを目標にしてやる坐禅はダメ」みたいなことを偉そうに言ってしまいましたが、初心者は全然それでいいんです。「ボ、ボク、強い心を作って、会社の人間を見返してやりたいいんです!」とか「好きな女性がいるんですが、話しかけたくても緊張しちゃって、うまくしゃべれません。なんとかしたいです!」とかね。最初はそういうよこしまな動機でいいんです。オレもそうだったし、それが普通じゃないでしょうか。で、よこしまな動機でもって、ガンガン坐禅をする。最初はそれでうまくいくかもしれない。でも、途中で行き詰ってくる。そこで、リラックスを教えると丁度いい具合になるんじゃないかしら。従来の指導では、リラックスより、気合い、我慢、集中といった一見根性主義かと思われるポイントばかりが強調されているように思うので、あえて言うんです。まあ、最初からリラックスだけを言うと、勘違いして居眠りする人も多いから、最初はピリ辛で教えるのもいいんだけども、もうひとつ、リラックスも教えないと、肝心な点を意識しないまま、修行を続けていくことになり、オレみたいに行き詰ってしまう人もいるんじゃないのかなあ。最近「無門関」(岩波文庫)をたまたま開いてみたら、第19則の「平常心是れ道」でいわれていることが、これに近いんじゃないかと思いました。趙州の「やはり努力してそれ(平常心)に向かうべきでしょうか?」という問いに、南泉和尚は「いや、それに向かおうとすると逆に逸れてしまうものだ」と答えているのは、その辺の所を言わんとしているんじゃないかなあ。だから、難しいのは、リラックスしようとするとかえってダメというわけで・・・。気張ってやるのもダメ、リラックスしようとするのもダメ、じゃあ、どうしたらいいんですかあ!ってことですよね。このことは、言えば言うほど、くどくなるばかりで、相手に伝えるのが大変難しいのですが、修行の重要なポイントであることだけは確かです。理解し、自分で体感していくしかないのかもしれません。またの機会に、別の角度からこのことをいってみようと思います。今日はちょっと息切れしてきました、ふぅ・・・。曹洞宗の藤田一照老師が、最近の著書「現代只管打坐講義」(佼成出版社)でこのあたりの消息を詳しく述べられているので、興味ある方は参考にしてくださいね。

 

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