【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆41

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、人生「今どうするか」だけ真剣にしていればいい。

 

①読み下し文

問う、大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)、十劫(じゅうごう)道場に坐するも、仏法現前せず、仏道を成(じょう)ずることを得ず、と。未審(いぶかし)、此の意如何。乞(こ)う、師指示せよ。

師云く、大通とは、是れ自己の処処(しょしょ)に於(お)いて其(そ)の万法の無性無相なるに達するを、名づけて大通と為(な)す。智勝とは、一切処に於いて疑わず、一法をも得ざるを、名づけて智勝と為す。仏とは心清浄(しんしょうじょう)、光明の法界(ほっかい)に透徹(とうてつ)するを、名づけて仏と為すことを得(う)。

十劫道場に坐すというは、十波羅密是(じっぱらみつこ)れなり。仏法現前せずというは、仏本(も)と不生、法本と不滅、云何(いかん)ぞ更(さら)に現前すること有らん。仏道を成ずることを得ずというは、仏は応(まさ)に更(さら)に仏と作(な)るべからず。

古人云く、仏は常に世間に在(いま)して、而(しか)も世間の法に染まらず、と。

 

②私訳

学僧が問うた。「大通智勝仏は十劫もの長い間、坐禅されましたが、ついに仏法現前せず、仏道を成じ得なかったと聞きます。これはどういうことなのか、お示しください」

臨済禅師は次のように言われた。

「自己(真我)がその場その場ではたらき、その現象はそれ自体独立したものではなく、変化し、やがて消えるものだという理解している者なので、それについて大通と名づけている。

一切を疑わず、たったひとつのモノもない(すべてはひとつだ)と理解している者なので、智勝と名づけている。

心が清らかで、気づきの光が世界にいきわたっている者なので、仏と名づけている。

それで大通智勝仏なのだ。

十劫もの長い間、道場で坐禅したというのは、十波羅密を行じたということだ。

『仏法現前せず』というのは、『仏は生まれるものではなく、もともとあるもの。したがって死もない。法も同じくもともとあるもので、だから不滅なのだ』

もともとあるものなので、『現前する』ということは有り得ないのだ。

『仏法を成じ得なかった』というのも同じことだ。大通智勝仏は既に仏であるので、さらに『仏に成る』というのはおかしいのだ。

古人は言った。『仏は常に世間に在って、しかも世間の習いには染まらない』と」

 

現場検証及び解説

 

学僧の質問を要約すれば、「大通智勝仏というような立派な方が、長い間坐禅をされているにも関わらず、どうして仏法が現前せず、仏道を成ずることもできないのでしょうか」ということです。

およそまっすぐな質問にたいして、臨済先生は、のらりくらりとベタな答え方をしています。大通智勝仏の名前の由来など、誰も尋ねていないのに。

大通智勝仏は立派な方で、既に仏法を会得されているように思われます。その方がなぜ、あたかも仏法に達していないように言われているのでしょうか。

私訳はやや意訳調に、言葉を補って作ってみましたので、お読みいただければ文意はわかると思います。繰り返せば、仏法は生来のものだから、「得る」とか「成る」とかいう言い方はできない、ということです。これは何も大通智勝仏に限ったことではありません。

私たち一人一人がもれなくそうなのです。白隠禅師坐禅和讃にもあります。「衆生本来仏なり」と。人間だけでなく、生き物すべてが仏性で生かされています。覚者と未悟の違いは、そのことを自覚しているかしていないか、の違いにすぎません。心の構造は全く同じなのです。

ですから、瞑想修行する必要もないと言えばない・・・。でも、仏法に対する理解がないと、人は苦しむことになっています。普通はそれを誤魔化して生きています。人に気晴らしが必要なのはそのせいです(パスカル)。

私は個人的にこう思います。人生は一種の謎解きゲームなのです。非常に巧妙に真実は覆(おお)い隠(かく)され、気づかれないようになっています。真実に気づくは大変困難なのですが、症状として苦が現れるので、多かれ少なかれ人は謎解きに向かわなければならない。

そうでなければ、一生の間、苦から逃れるために気晴らしを続けなければなりません。それはそれで、悪いことではありません。しかし、際限ないお祭り騒ぎに身を浸しながら、永遠に続く不全感には堪えていかなければならないでしょう。

修行に向かうか、気晴らしを続けるか、選択は2つにひとつです。苦しそうだけど良い選択が修行で、楽しそうだけど悪い選択が気晴らしです。修行というと堅苦しく思われるかもしれませんが、人生に真面目に取り組むか、できるだけ快楽を追い虚無的に生きるかの違いです。

私だっていつもいつも良い選択をしているわけではありません。悪い選択は「わかっちゃいるけどやめられない」ものです。今でも、半分は悪い選択をしているのかもしれません。しかし、この肉体の寿命は有限です。「そういう選択でいいのか?」という声は聞こえてきます。

また、これは常に「今どうするか」という選択です。過去と未来、時間は関係ありません。いわば待ったなしの「今どうするか」が常に問われているのです。鎌倉時代の明恵上人の教え「あるべきようは」はそのことを言っているのではないか、と思います。さわりだけご紹介して、終わりにします。

「人は『あるべきようは』という七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべき様(よう)、俗は俗のあるべき様なり。乃至(ないし)、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背(そむ)く故(ゆえ)に、一切悪(わろ)きなり。我は後世(ごせ)たすからんと云(い)う者に非(あら)ず。ただ現世に、先(ま)ずあるべきようにてあらんと云う者なり」

岩波文庫からの抜粋です。明恵上人の評論に白洲正子さんのもの、河合隼雄先生のものがあります。興味ある方はのぞいてみてください。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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