【臨済録】やさしい現代語訳・解説 上堂3

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、禅では「臨機応変」が重要なのだ。

 

①読み下し文

師、因(ちな)みに一日河府(かふ)に到る。府主王常侍、師を請(しょう)じて陞座(しんぞ)せしむ。

時に麻谷(まよく)出(い)でて問う、大悲千手眼(だいひせんしゅげん)、那箇(なこ)か是れ正眼(しょうげん)。

師云(いわ)く、大悲千手眼、那箇か是れ正眼、速(すみ)やかに道(い)え、速やかに道え。

麻谷師を拽(ひ)いて座を下(くだ)らしめ、麻谷却(かえ)って坐す。

師近前して云く、不審(ふしん)。

麻谷擬議(ぎぎ)す。

師も亦(ま)た麻谷を拽いて座を下らしめ、師却って坐す。

麻谷便(すなわ)ち出で去る。師便ち下座(げざ)す。

 

②私訳

臨済禅師はある日、河北府に行った。王常侍知事は禅師に説法を請うた。そのとき、麻谷禅師が問うた。

「大悲千手千眼の菩薩像は、どれが正面の眼か!」

臨済禅師は言った。「大悲千手千眼、どれが正面の眼か、速やかに言え!速やかに言え!」

麻谷禅師は臨済禅師を引っ張って演壇の坐から降ろし、代わりにそこに坐った。

禅師は近づいて言った。「ようわからんなぁ」

麻谷禅師は思案した。臨済禅師は麻谷禅師を引っ張って坐から降ろし、自分が坐った。

麻谷禅師は立ち去った。臨済禅師は坐を立った。

 

現場検証及び解説

 

臨済先生と麻谷禅師の法戦(ほっせん)です。麻谷と個人名で語られているので、そこそこの力量のある禅僧です。前にも述べましたが、「臨済録」では個人名で登場する人物は覚者です。ある僧とか学僧として登場する僧は未悟の僧です。「無門関」でもそうなっていたと思います。

 

「大悲千手千眼の菩薩像は、どれが正面の眼か!」

ネットで大悲千手千眼像を調べてみました。いくつもの手が、身体の周りに円形に広がっています。お顔も正面のメインの顔以外にいくつか上の方についています。手も顔も十数個ほどで、とても千あるとは思えません。説明文には手にそれぞれ眼がついていて、その眼で一切の衆生を見て救済するという、ありがたい菩薩様だそうです。

「どれが正面か」という問題に答えるためには、空間というものを前提にしなければなりません。正面が在るということは裏面や側面も在るということになります。そうなると、禅的には困ったことになります。なぜか?

禅的には「今ここ」しかないからです。無時空間が禅仏教の根本であるからです。麻谷禅師の「どれが正面か」という問いは、「今ここ」から逸れさせるための罠(わな)なのです。

ですから、仮に臨済先生が「これが正面だ」とひとつの面を指示したとしたら、麻谷禅師は「正面も裏面もあるものか!」と言うか、あるいは「すべてが正面じゃ、馬鹿たれが!」とやったのではないでしょうか。

臨済先生はそこはちゃんと心得ていますから、麻谷禅師の手には乗りません。オウム返しに質問を逆転させ、「お前が答えてみよ」と迫ります。

麻谷禅師もなかなかの人です。言葉は発しませんが、あなたが質問するなら、私がここに坐るべきですなあ、とばかりに、演壇から臨済先生を引きずり降ろし、自分がそこに収まります。1メートル程の高さの大きな椅子のような演壇だったようです。

そこで、臨済先生は麻谷禅師にぐいっと近づき、「不審」とひと言いいます。

岩波文庫の入谷義高先生はこの「不審」を「ご機嫌よろしゅう」と訳されていますが、私はしっくりこないので、別の訳し方をしてみました。というか、不審者の「不審」ですから、普通にそのような意味合いで訳せばいいと思いました。

「審」は漢和辞典によると、「つまびらかにする、くわしい、はっきりさせる」という意味です。「不審」はその否定ですから、「ようわからんなぁ」と。

臨済先生は麻谷禅師のことを覚者かどうか、決めかねたのではないでしょうか。今の段階では悟っているかどうかはっきりしないので、「ようわからんなぁ」と言ったのではないかと、私は解釈しました。

それに対して、麻谷禅師は「擬議(ぎぎ)」してしまいます。「擬議=思案」すると、法戦では負けです。麻谷禅師もそれ以前は、思考なしに自由自在にはたらけていたのですが、臨済先生の「不審」のひと言に、どう対応するか迷い、作為する心が発生してしまいました。惜しいですね。

臨済先生は「じゃあ、やっぱりここに坐るのはオレだ」とばかりに、麻谷禅師を引きずり降ろし、自分が演壇に坐ります。禅的なはたらきを解説するのは野暮だと承知で、臨済先生のお気持ちをあえて代弁してみます。

「お前の悟りの境地はまだまだ不徹底だ。オレが揺さぶりをかけると、すぐに即今から逸れ思考を発した。もっと精進しなさい」

麻谷禅師はあっさり負けを認め、引き下がります。臨済先生は「法戦(法話)は終了」と演壇を降ります。禅では臨機応変に行為するということが、大変重要であることが、この法戦でわかりました。

さて、これを脇で観ていた王常侍知事ですが、何か感じるところがあったでしょうか。心配です。

 

では、今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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