【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆36

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「言葉は真我が身に付ける衣装」

 

①読み下し文

大徳、你、衣を認めること莫(なか)れ。衣は動ずること能(あた)わず、人能(よ)く衣を著(つ)く。箇(こ)の清浄衣(しょうじょうえ)有り、箇の無生衣、菩提衣、涅槃衣有り、祖衣有り。

大徳、但有(あらゆ)る声明(しょうみょう)文句は、皆な悉(ことごと)く是れ衣変(えへん)なり。臍輪気海(さいりんきかい)の中より鼓激(こげき)し、牙歯敲磕(げしこうかつ)して、其(そ)の句義(くぎ)を成す。明らかに知んぬ、是れ幻花なることを。

大徳、外に声語(しょうご)の業を発し、内に心所の法を表す。思(し)を以(も)って念を有す、皆な悉く是れ衣なり。你、秪麼(いちず)に他(かれ)の著くる底の衣を認めて実解(じつげ)を為(な)さば、縦(たと)い塵劫(じんごう)を経るとも、祗(た)だ是れ衣通(えつう)なるのみ。三界に循環して、生死(しょうじ)に輪廻す。

如(し)かず無事ならんには。相逢うて相識(し)らず、共に語って名を知らず。

 

今時の学人の得ざることは、蓋(がい)し名字を認めて解(げ)を為(な)すが為(ため)なり。

大策子(だいさくす)上に、死老漢の語を抄(うつ)し、三重五重に複子(ふくす)に裏(つつ)んで、人をして見(みせ)しめず、是れ玄旨(げんし)なりと道(い)って、以(も)って保重(ほじゅう)を為す。大いに錯(あやまれ)り。瞎屢生(かつるせい)、你(なんじ)は枯骨上(かこつじょう)に向(お)いて、什麼(なん)の汁をか覓(もと)む。

一般の好悪を識(し)らざる有って、教中に向って取って意度商量(いたくしょうりょう)して句義を成(じょう)ず。屎塊子(しかいす)を把(と)って、口裏(くり)に向(お)いて含み了(おわ)って、別人に吐き過(や)るが如し。猶(な)お俗人の伝口令(でんくれい)を打するが如くに相似たり。一生虚しく過ごす。

也(たと)い我れは出家なりと道(い)うも、他(ひと)に仏法を問著(もんじゃく)せらるるや、便即(すなわ)ち口を杜(と)じて詞(ことば)無く、眼(まなこ)は漆突(しっとつ)に似、口は扁担(へんたん)の如し。此の如きの類(たぐい)は、弥勒の出世に逢うとも、他方世界に移置(いち)せられ、地獄に寄せて苦を受けん。

 

②私訳

諸君、人の衣装に囚(とら)われてはいかん。衣装は動きのないもの(固定観念)だ。人は衣装(固定観念)をまとうものだ。清浄の衣装、無生の衣装、菩提の衣装、涅槃の衣装、祖師の衣装、仏陀の衣装・・・。

諸君、あらゆる言葉は衣装であり、着替えれば変わるものだ。腹の中から空気の振動が起こり、それが歯をカチカチいわせて言葉になる。これが実体のないものであることは明らかである。

諸君、外に向かって言葉を発するのは、心にその仕組みがあるからだ。まずひらめきが起こり、言葉になる。これは皆衣装なのだ。

諸君は「真我=仏性=本来の面目」が身につける衣装の方を実体だと思い込む。そうすると、いつまで経っても、衣装に詳しくなるだけだ。迷いの世界を堂々巡りして、(自我の)生死を繰り返すのだ。それよりも、無事であるほうがよっぽど良い(事象に巻き込まれず、即今を保て)。

「真我=仏性=本来の面目」が出会ったとしても、互いを認識することはない。互いに語りあったとしても、お互いを認識することはない(会い、話すのは個人同士)。

 

今どきの学人がダメなのは、仏教を言葉の上で理解しようとするからだ。大判のノートに老いぼれ和尚の言葉を書きとめ、三重五重に風呂敷に包み、人には見せず、これこそ秘密の奥義だとばかりに、後生大事にする。大間違いだ。モノの見えぬ馬鹿者め! カスカスに干からびた骨にかじりついて、どんな汁を吸おうというのか!

世間にはものの良し悪しもわからぬまま、教義をあれこれ解釈し、さらに言葉を積み重ねる者がいる。このような行為はまるで、糞(くそ)を口に含んで他人に向かって吐き出すようなものだ。また、田舎者の伝言ゲームのようなもので、一生虚しく過ごすことになる。

出家者を気取ってはいても、他人に仏法を問われたとて答える術(すべ)もなく、眼はヤニのついた煙突の如く、口はへの字に結んだままだ。

こんな連中は、弥勒菩薩の出現に立ち会っても、他の場所に移されてしまって、地獄の苦しみを受けることになろう。

 

現場検証及び解説

 

人の衣装に囚(とら)われてはいかん。衣装は動きのないもの(固定観念)だ。人は衣装(固定観念)をまとうものだ。

衣装というのは、言葉ととらえてほぼ間違いないと思います。心理学的に言えば、ペルソナ(仮面)の概念に近いのかもしれません。

ふつう人は「自分はこのような人物だ」というイメージをもっています。それは流動的なものです。放っておけば消えていく、いわば虚像です。しかし、なぜかそれは固定的にあるように感じられています。なぜでしょうか? それは、常に私たちが自己イメージを補強し続けているからです。

虚像であるがゆえに、私たちはそれ(自己イメージ)をケアし続けなければならないのです。また、自分でケアしなくとも、周りの人たちがケアしてくれることも多々あります。

「お父さん」と呼ばれれば、そのイメージが強化されます。「課長」と呼ばれれば、そのイメージが強化されます。「ご主人」と呼ばれれば、世帯主としてのイメージが強化されます。何か世間の話題について意見をいい、それを他人に同調してもらう、という強化のし方もあります。いわば社会的な認証です。

「他人に認められるということ」これがないと、人はなんだか不安になってきます。自分の存在が社会の中で不確かなもののように感じられるのです。これは言ってしまえば、単なるエゴの要求です。エゴの要求を無視し、「他人に認められること」「自分が何者かであろうとすること」を拒否し続ければ、エゴはその力を失っていきます。そのように、修行をしていくべきです。

しかし、如何せん人間は社会的な存在ですから、最低限の役割は担わなくてはなりません。会社に行けば課長の役割を果たさなければなりません。自宅では父親の役割を果たさなければなりません。ただ、これらの役割は仮のものだ、身に付けた衣装なのだという意識はもっておいたほうがいいのです。

そして、エゴの力が弱くなると、想像とは反対に、物事はむしろスムーズに進むと思います。試してみてください。

真我が個我(役割、意見、主張、批判)の衣装をまとうので、それらは固定観念であり、本来の私たちではありません。本来私たちは「何物でもない者」つまり「無我」です。

 

その後の臨済先生の主張は不立文字です。「文字に頼って修行をするな」と言っています。それは、ある一面では正しいことです。仏教の知識だけ集めても修行は進みません。知識だけでなく、それに対する実感が伴わなければ力にはなりません。そのことを臨済先生は言っています。

この項では、大変戯画的に意地悪く、勉強家を揶揄していますが、本を読んで勉強することも大変重要なことです。ただ、上っ面の知識を増やしても進歩はありません。自分の瞑想修行の実感と照らし合わせて、「なるほどそうだなあ」と理解を深めてこそ、意味のある勉強になるのです。

読んで「納得」することが重要です。また、「納得」を別の言い方で「腑(ふ)に落ちる」と表現することもあります。知識が頭の理解にとどまらず、腹に収まるという感じでしょうか。そのように読書すれば、修行はむしろ進みます。瞑想修行と共に読書をすればいいのです。

禅にその立場を置く方は、ややもすると「言葉では言い表せない」という表現を多様します。しかし、人に向かって話したり書いたりしている以上、そういう言い方は慎むべきです。それは聴衆(読者)に非常に失礼な態度です。もし、本当に言葉で言えないのなら、法話はせず、黙るべきです。もし、法話をするのなら、全力を尽くして伝わるように聴衆(読者)に語りかけるべきです。

言葉の拙さの言い訳に「不立文字」が使われることが多く、とても残念です。

個人的な感想ですが、臨済先生の法話は迫力はあったでしょうし、直に聞けば凄いインパクトもあったでしょう。ただ、一方で、文飾や語調が優先されて、言葉の正確さに欠けるような印象があります。こういったところにも、不立文字の横着さを感じてしまいます。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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