【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆32

2023/09/08
 

 

こんにちは!

 

今回は、臨済先生の「四賓主(しひんじゅ)」の解説です。

 

①読み下し文

道流、禅宗の見解の如きは、死活循然(じゅんぜん)たり。参学の人、大いに須(すべか)らく子細にすべし。

主客相見(しょうけん)するが如きは、便(すなわ)ち言論往来あり。或は物に応じて形を現じ、或は全体作用し、或は機権(きけん)を把(と)って喜怒し、或は半身を現じ、或は獅子に乗り、或は象王に乗る。

(一) 如(も)し真正の学人(がくにん)有らば、便ち喝(かっ)して、先(ま)ず一箇(いっこ)の膠盆子(こうぼんす)を拈出(ねんしゅつ)す。善知識は是れ境(きょう)なることを弁ぜず。便(すなわ)ち他(そ)の境上に上って模(も)を作(な)し様(よう)を作す。学人便ち喝す。前人肯(あ)えて放(はな)たず。此れは是れ膏肓(こうこう)の病、医するに堪(た)えず。喚(よ)んで、客、主を看(み)ると作す。

(二) 或是(あるい)は善知識、物を拈出(ねんしゅつ)せず、学人の問処(もんじょ)に随(したが)って即(すなわ)ち奪う。学人奪われて、死に抵(いた)るまで放たず。此れは是れ、主、客を看る。

(三) 或は学人有って、一箇(いっこ)の清浄境に応じて、善知識の前に出づ。善知識は是れ境なることを弁得(べんとく)し、把握(はあく)して抗裏(こうり)に抛向(ほうこう)す。学人言う、大好(だいこう)の善知識と。即ち云く、咄哉(とっさい)、好悪を識(し)らずと。学人便ち礼拝す。此れは喚(よ)んで、主、主を看ると作す。

(四) 或は学人有って、枷(か)を披(つ)け鎖(さ)を帯びて、善知識の前に出づ。善知識更に与(ため)に一重の枷鎖(かさ)を安(お)く。学人歓喜して、彼此(ひし)弁ぜず。呼んで、客、客を看ると為(な)す。

大徳、山僧是の如(ごと)く挙(こ)する所は、皆な是れ魔を弁じ異を揀(えら)んで、其(そ)の邪正(じゃせい)を知らしむるなり。

 

②私訳

諸君、禅宗の見解では、自我は死んだり生きたりするのだ。学人はここのところを、とくと検討してもらいたい。

主(師家・善知識)と客(学人)が対面するとき、そこには言葉のやり取りがある。

あるときは、その場に応じて形をもって示し、あるときは全身ではたらいてみせ、あるときはきっかけをとらえ感情をあらわにし、あるときは半身を現し、あるときは獅子(文殊菩薩)に乗り、あるときは象王(普賢菩薩)に乗る。

 

① 真正の学人がやってき、まず一喝して、それから一枚のベタベタした粘着質の盆(居付きやすい仕掛け)を差し出す。師家はそれを気にしないで、その上に乗って、あれこれやってみせる。学人は喝するが、師家はそれを止めはしない。これは難病のようなもので、治療のしようがない。このようなパターンを「客が主を看る」という。

 

② またあるとき師家は、物は使わず、学人の問う言葉をことごとく奪う。学人は問いを奪われるが、(自我の)死に至るまでそれを手放さない。このパターンを「主が客を看る」という。

 

③ あるときは、学人が清浄身として師家の前に現れる。師家はこれを外面にすぎぬと見抜き、つかんで便壺に放り込む。学人は「なんと素晴らしい善知識(師家)であることか!」と感嘆する。師家は「なんだ、ものの良し悪しもわからん奴め!」とののしる。学人は礼拝する。このパターンを「主が主を看る」という。

 

④ あるときは、学人が仏教の教義に縛られた状態で師家の前にやってくる。師家がさらに教義を持ち出して、学人を縛ってやると、学人は大喜び。教義の意味を吟味すらしない。このパターンを「客が客を看る」という。

 

諸君、ワシがこのような例を挙げるのは、害になるもの間違ったものを提示して、何が真正で何が偽物か知ってほしいからだ。

 

現場検証及び解説

 

この項は臨済先生の「四賓主(しひんじゅ)」といって、師家が学人を指導するときのありようを、四つのパターンに分けて解説しています。

師家はおそらく臨済先生自身のことで、各地からやって来る学人を、おおよそ4タイプに分類し、それぞれに応じてこのように対応するのだ、とおっしゃっています。

締めの一文でもおっしゃっているように、学人の陥りやすい悪い例を提示し、それを避けて修行せよとの教えだと思われます。因みに①は唯一良い学人。あとの②③④が悪い例です。

また、解説の前にひとつ注意点があります。主と客の意味です。2行目の「主客相見」の「主客」は主人(師家)と客人(学人)のことですが、4パターンの締めに提示されている、主客は全然違う意味で使われていますので、ご注意ください。

そのことを、以下に説明してから、4パターンの説明に取り掛かります。

 

●主というのは、即今状態を保つことです。即今は無時空間の垂直軸のようなもので、知られざる意識の源泉です。覚者はそれを直に経験した人です。即今から意識は展開していき、現象が現れます。そこは覚者も未悟も同じです。

しかし、覚者は常に現象の使い手であるのに対して、未悟は現象に使われてしまいます。すなわち、現象に振り回されてしまうのです。それは、即今があるにもかかわらず、それに対する自覚がないからです。

 

●客というのは、現象世界に関わっていくことです。しかし、客には2つのパターンがあります。ひとつは、主(即今)の自覚がありつつ、あえて客(現象)に関わる場合。これは覚者のみ可能です。

もうひとつは、主の自覚がないまま、客に関わる場合です。これは未悟のケースです。

これを犬の散歩に例えることができます。前者は飼い主が手綱をしっかりとつかんでいる場合です。必要とあらば、犬(現象)を引き戻すことが可能です。

後者は手綱が切れてしまって(あるいは最初から手綱がない)、犬(現象)が勝手に走り回っている場合です。飼い主は犬を見失っています。見失うことにより無意識に、犬(現象)に振り回されることになります。

 

さて、では上記の主と客の概念を用いて、①~④のケースを解説していきましょう。

 

① 真正の学人です。まだ未熟ではありますが、覚者です。覚者がやって来て、覚者の臨済先生を試そうとします。ベタベタしたお盆というのは、真正の学人が持ち出した仕掛けです。たとえば「近頃の修行者はいかがですか?」というような、ごく当たり前の質問がそれにあたります。

一般社会ならこの質問に答えることは普通のことですが、禅では答えること自体が「即今に背く」ゆえにNGです。本来の臨済先生なら、その手には乗るか!とばかり、喝を繰り出すところですが、相手がなかなかの境地であると見抜いています。

なので、「こいつに喝は不要」とばかりに、その仕掛けにわざと乗ってみせます。つまり、客(現象に関わる)になってみせます。「そうですなあ、最近の修行者は軟弱でしてなあ」という具合に。

真正の学人は臨済先生の境地を、やはり見てみたいわけです。丁々発止の問答をやってみたくて、やって来たのですから。ところが、臨済先生は全く本気を出してくれず、凡夫然(普通のおっさん和尚)とした態度しか示してくれません。真正の学人の喝は「臨済先生、愚かなマネは止めてください!」ということでしょう。

臨済先生は案外、シャイなのかもしれません。真面目くさって「お前なかなかのものだ」と素直に褒めるのが照れ臭いのかもしれません。わざと、ドタバタ劇を演じてみせます。真正学人は辟易(へきえき)したことでしょう。

このことを自嘲気味に難病と言っています。

が、この真正の学人を全く相手にせず、ただ愚かに振る舞っているわけでもなさそうです。

真正の学人が用意してきた仕掛けに乗ってみせながら、その反応を看(み)ているのです。それが臨済先生流の、この学人に対する教化なのかもしれません。

なので、「客(臨済先生)、主(真正の学人)を看る」のです。

 

② 問う学人です。きっと、この学人の頭の中には、仏教への疑問がいっぱい渦巻いているのでしょう。言葉を頼りに仏教にアプローチしようとしています。しかし、言葉からのアプローチは、仏教に関していえば、遠回りになります。なぜなら、言葉以前の只今即今の自覚が、仏教理解の最大のポイントだからです。

それで、臨済先生はこの学人の問いをすべて奪いにかかります。たとえば、こんな感じです。

学人「仏教の根本は何でしょうか」臨済先生「そのようなものはない」学人「どのように悟りに向かって修行すればよろしいでしょうか。道をお示しください」臨済「道などない」学人「どうかご教授ください!臨済先生」臨済「喝!」

というような具合で、取り付く島がないというか、否定、否定、否定で、言葉の行き場を失わせる。進退極まりない立場に立たせようとする。一見、意地悪をしているようにも見えますが、臨済先生は学人を思い、親切でこうしています。因みに最後の一句「喝!」は即今を端的に教授しています。

しかし、学人はそれに気づきません。さらに言葉にこだわり、「喝とは何でしょうか!」と食い下がります。「言葉を奪われても手放さない」というのは、たとえばこのような状況です。この問答がうまくいき、学人が言葉を手放せば、自我が死に、悟りに達します。

が、もし自我の死が起こったとしても、一時的なものの場合が多く、自我はゾンビのように生き返ります。というわけで、さらなる修行が必要ですが、一度自我損失の体験をしてしまえば、その後の修行は比較的容易になると思われます。

この場合、主(即今)の立場から、客(言葉・現象)の立場にいる学人を指導する、という意味で「主が客を看る」のです。

 

③ 清浄身、つまり即今を保ったまま師家の前に立つ学人です。しかし、即今の根は浅く、保っているので精一杯という感じです。臨済先生は、このような浅はかな清浄身は、あまりお好きでないようです。そんな取って付けたような清浄身、押せばすぐに崩れてしまう即今など、ワシは認めんよ、とばかりにポイと捨ててしまいます。

ここは気概のある学人なら、怒るところでしょう。ところが、学人は腹を立てるどころか、臨済先生をほめたたえます。最初から、ガチで対決するつもりはないのです。

臨済先生から「ものの良し悪しもわからんのか!」とののしられますが、それでも冷静を装って礼拝して去っていきます。このような学人は覚者のウィンドウショッピングをしているようなもので、たくさんの覚者巡りはせっせとやりますが、一向に霊性の進歩はありません。

もっと内面に刺さるような修行をすべきなのです。楽しいだけの修行は修行とはいえません。誤解のないように言い添えますが、苦しいだけの修行も修行とはいえません。やり方が正しければ、そこはかとなく楽しい感じがジワッと出てくるはずです。

なんか変だなあ、と違和感を感じるなら、修行のやり方を点検してみてください。あるいは、工夫し直してみてください。

真正の主(臨済先生)が偽者の主(清浄身もどきの学人)を看るという意味で「主が主を看る」です。

 

④ 仏教の教義しか知らない学人です。ひょっとしたら瞑想修行を一度もしたことがない学人かもしれません。そこそこ瞑想修行をして、見込みのある学人なら、臨済先生は「学人の提示する教義を奪う」という対応をしたと思います。②で説明したような対応です。

しかし、臨済先生は、この学人はまだその域にも達していないと見て取ったのでしょう。まともに相手はしません。師家の方からも教義を提示し、学人の知識欲を満足させてやります。

学人も言葉の世界におり、臨済先生もそれに合わせて言葉の世界で対応しているので、「客が客を看る」です。

 

いかがでしたでしょうか。今回はこの辺で失礼します。

また、お会いしましょう。

 

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