【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆24

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「死後すべてが断絶する」のか?

 

①読み下し文

一般の禿比丘(とくびく)有って、学人に向って道(い)う、仏は是れ究竟(くきょう)なり、三大阿僧祗劫(さんだいあそうごう)に於(お)いて修行果満(かまん)して、方(まさ)に始めて成道(じょうどう)すと。

道流(どうる)、你若(なんじも)し仏は是れ究竟なりと道わば、什麼(なに)に縁(よ)ってか八十年後、拘尸羅城(くしらじょう)の双林樹(そうりんじゅ)の間に向(お)いて、側臥(そくが)して死し去る。仏は今何(いずれ)にか在る。明らかに知んぬ、我が生死と別ならざることを。

你言う、三十二相八十種好(ごう)は是れ仏なりと。転輪聖王(てんりんじょうおう)も応(まさ)に是れ如来なるべきや。明らかに知んぬ是れ幻化(げんけ)なることを。

古人云く、如来挙身(にょらいこしん)の相は、世間の情に順ぜんが為(ため)なり。人の断見(だんけん)を生ぜんことを恐れて、権(かり)に且(しばら)く虚名(こみょう)を立つ。仮に三十二と言う、八十も也(ま)た空声(くうしょう)なり。有身(うしん)は覚体(かくたい)に非ず、無相乃(すなわ)ち真形(しんぎょう)、と。

 

②私訳

世間の坊主どもは学僧に「仏陀は究極の境地だ。長大な時間修行し、それが完成し、初めて覚醒したのだ」と言う。しかしそれならば、なぜ80歳で拘尸羅城の双林樹で横になって死んだのだ。仏陀は今どこにいる。仏陀は我々、つまり生死する者と同じ者なのだ。

諸君は「三十二相・八十種の瑞相(めでたい人相)を持つ者が仏陀だ」と言う。それでは、転輪聖王も如来なのだろうか。仏陀とは明らかに幻である。

古人は言った。「如来の瑞相は、世間の思いに応えようとしたものだ。世間に、死後すべてが断絶するという誤解が生まれるのを恐れて、仮の虚像を据えたのだ。三十二相・八十種の瑞相も作り話。肉体が覚醒するのではない。形なきもの(真我)こそが、真の形(我)なのだ」と。

 

現場検証及び解説

 

一見、臨済先生が仏陀を冒涜しているように見えますが、そうではありません。仏陀(釈迦)という個人が覚醒したのではない、個人的な肉体が覚醒したのではない、ということを言わんとしています。

お釈迦さまが偉大であることは間違いありません。しかし同時に、お釈迦さまは肉体を持ち、死すべき運命のひとりの人間であったことも事実です。その点では、私たちと何ら変わることはありません。そのことを臨済先生は言っています。

人は偉大な人物や超越的な存在を意識すると、その存在を崇め奉る傾向があります。神や仏をひたすら拝むことによって、それらと一体化しようとします。信仰や帰依による宗教へのアプローチは、今でも一般的なものでしょう。しかし、禅仏教のアプローチはちょっと違います。

禅は信仰や帰依によってではなく、自己探究することによって、それに向かおうとします。指導者は修行者の自己探究を促します。悟れるかどうかは、修行者の素質と精進しだいです。ですから臨済先生は「自分こそ仏なのだぞ。それに気づけ!」と檄(げき)を飛ばします。外部に仏を探しに出かけることを固く禁じます。

禅仏教は自力で悟るというのが基本です。上記の臨済先生の言説は、帰依スタイルの修行に陥らないようにとの思いで、学僧を励ましているようにも思えます。

 

人の断見(だんけん)を生ぜんことを恐れて、権(かり)に且(しばら)く虚名(こみょう)を立つ。

世間に、死後すべてが断絶するという誤解が生まれるのを恐れて、仮の虚像を据えたのだ。

読み下し文と私訳です。

断見というのはあまり耳慣れない言葉です。調べてみると、「死後すべてが断絶する」という考えで、仏教的には間違った考えとされています。ということは、仏教は「死後も何ものかが継続する」と考えているということです。こういった考えは、近代以降の論理的思考を重んじる文化のなかでは、否定されます。「そんなバカな!」ということです。

もちろん「「死後も何ものかが継続する」という証拠はありません。覚者はともかく、凡夫の私たちにはうかがい知れぬことです。しかし「死後すべてが断絶する」という証拠もまたないのです。ここは間違ってはいけません。

「死後すべてが断絶する」という思いで生きると、刹那主義的な生き方になります。また、自分さえ良ければいいという個人主義に陥る可能性がでてきます。それでは、人間は本当に幸せな生き方はできません。

私の感じ方ですが、刹那主義的な生き方、個人主義的な生き方が、それほどいいように思えないのは、その考えが真理ではないからです。もし、それが真理なら、私たちはもっとその考えに、好印象を抱くはずです。「人生はただ自分さえ楽しめばいいのだ」と誰もが言い切れ、その考えをみんなで共有できるのであれば、それは真実なのでしょう。

しかし、その言葉にどことなく投げやりな感じがあり、言った本人が後ろめたさを感じるのであれば、それは真実ではないのでしょう。

テーラワーダ仏教の指導者、スマナサーラ長老は次のようにおっしゃっていました。だいたい、こんな感じです。

「死後の継続がある、という考えで生きて、損はありません。あったとしたら、良い生き方の延長で継続があります。もし、死後の継続がなかったとしても、あると考えて良い生き方ができたのだから、それでいいでしょう?」と。この考えに反論することは、私はできませんでした。方便としても、優れた考えだと思います。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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