【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆23
こんにちは!
今回は、「有事(うじ)の人と無事(ぶじ)の人」の違い。
①読み下し文
問う、如何なるか是れ心心不異(しんじんふい)の処。師云く、你の問わんと擬(ほっ)するや、早(すで)に異(こと)にし了(おわ)れり、性相各(おのおの)分かる。
道流、錯(あやま)ること莫(なか)れ。世出世の諸法は、皆自性(じしょう)無く、亦た生性(しょうしょう)無し。但(た)だ空名(くうみょう)有るのみ、名字(みょうじ)も亦た空なり。你(なんじ)は祗麼(ひたす)ら他(か)の閑名(かんみょう)を認めて実と為(な)す。大いに錯(あやま)り了(おわ)れり。
設(たと)い有るも、皆な是れ依変(えへん)の境なり。箇(こ)の菩提依(ぼだいえ)、涅槃依(ねはんえ)、解脱依(げだつえ)、三身依(さんしんえ)、境智依(きょうちえ)、菩薩依(ぼさつえ)、仏依(ぶつえ)有り。
你は依変国土(えへんこくど)の中に向(お)いて、什麼物(なにもの)をか覓(もと)む。乃至(ないし)三乗十二分教も、皆な是れ不浄を拭(ぬぐ)うの故紙なり。
仏は是れ幻化の身、祖は是れ老比丘(ろうびく)。你は還(は)た是れ娘生(じょうしょう)なりや。你若し仏を求むれば、即ち仏魔に摂(せっ)せられん。你若し祖を求むれば、祖魔に縛(ばく)せられん。你若し求むること有れば皆な苦なり。如(し)かず無事ならんには。
②私訳
「心と心は異ならぬ」というのはどういうことですか、という問いがあった。
臨済禅師は言われた。
お前が問おうとしたとたん、もう異なったものになり、ひとつの仏性が現象化して分かれていくのだ。
諸君、間違ってはいけない。諸々の物体・想念は、実体のないもの(依存し変化するもの)であり、したがって、生滅もないものである。ただ、名ばかりのもので、その名もまた実体がない。諸君はそのような空しい名を、実体だと思っているのだ。それは大間違いだ。
たとえ有るように見えたとしても、すべて、それぞれに依存し、変化していく世界なのだ。菩提という仮のもの、涅槃という仮のもの、解脱という仮のもの、三身という仮のもの、境智という仮のもの、菩薩という仮のもの、仏という仮のものがある。お前はこのような仮定と変化の世界で、何を求めるのか。
すべての仏典も、皆これ心の汚れを拭う古紙にすぎない。仏とは幻、祖師は老いた僧にすぎない。諸君は母親から生まれた男子ではないか。もし諸君が仏を求めたりしたら、仏という名の魔物に取りつかれることになる。もし諸君が祖師を求めたりしたら、祖師という名の魔物に縛られることになる。もし諸君が何かを求めたりしたら、それは苦痛となるだろう。
何も求めぬ無事の人が一番良いのだ。
現場検証及び解説
まず、「心心不異」の説明をします。前回この言葉を「未顕現の心(仏性)と顕現した心(現象)」というふうに訳しました。
しかし、今回問題になっている「心心不異」にそれを当てはめようとしたところ、無理があることに気づきました。なので、今回の「心心不異」は多少前回と異なりますので、あらかじめご了解ください。中国文化人は言葉を玉虫色に使うように思います。つまり、意味を固定せずに、文章によって少しずつ意味をずらす傾向があるのです。
心はひとつです。これは基本命題です。心の在り方を説明するために、あえて名前を付け区別するのです。前回は未顕現の心(仏性)と顕現した心(現象)というふうに分けました。今回は顕現した先に区別を付けます。これは仮の区別です。本当は心はひとつです。
你の問わんと擬(ほっ)するや、早(すで)に異(こと)にし了(おわ)れり、性相各(おのおの)分かる。
お前が問おうとしたとたん、もう異なったものになり、ひとつの仏性が現象化して分かれていくのだ。
「擬」という言葉がポイントです。「擬」は「ほっ」とルビがあるように、「何かをしようと意図する」ということです。この場合は「問おうと意図する」です。学僧が臨済先生に問い、その事を即座に法話に取り入れた、ということです。
「問おうと意図」したとたん、学僧の意識が変わります。臨済先生に問うわけですから、学僧に緊張が走ります。自我が収縮して、少なくとも「我」と「世界」というふうに世界が2分割されます。
皆さんは「自分と世界は最初から2つに分かれている」と思っているのではないでしょうか。私も長い間そう思っていました。しかし、仏教を学ぶにしたがって、そうではないことに気づきました。世界はひとつです。虚心坦懐に世界を観察し、感じてみてください。皮膚の内側と外側に明確な境界があるでしょうか。
「当り前じゃないか。あるに決まっている」と言われるかもしれませんが、失礼ながら、そのような人は、私が言ったとおりに感じてみることをせずに、そう言っています。素直にしばらくの間、感じてみてください。ハッキリとした境界はないはずです。
たとえあるように思えたとしても、それは思考が介入した後の話です。種明かしすると、思考がひとつである世界を、まず2つに分け、そこからさらに分離していくのです。そうして世界は細分化され続け、おそらくそのせいで親密さを失ってしまうのです。
疑問が生じたとたん、すなわち思考が介入したとたんに、元々ひとつである世界に切れ目が入り、分離が開始されます。その一番最初の分割を、臨済先生は「性相各分かる」と表現します。今風に言い換えれば「仏性が現象化して分かれていく」ということです。
前回と合わせて、「心心不異」をまとめてみましょう。まず、未顕現の心(仏性)があります。ザックリ言えば、意識が眠っている状態です。それが眠りから覚め「私は在る」と認識します。これが、一番最初の顕現した心です。
ベッドの上の顕現した心は、まだボンヤリしていて、ハッキリとした「自分VS.世界」という境界を設けていません。自我が世界に対して「構えていない」「緊張、収縮」していない状態です。これが、ベッドから起きて妻と顔を合わせると、まず最初の分離が起こります。そこからさらに、家を出て駅まで歩き、人波に揉まれ、会社に着き、部下や上司と挨拶を交わし、パソコンに向かい、仕事の内容を確認していく・・・うちに様々に世界は細分化されていきます。世界に関わり、世界に巻き込まれていきます。巻き込まれていくことが、迷いであり苦です。有事(うじ)の人といっていいのかもしれません。
これに対して、様々な雑事をこなしながらも、それに巻き込まれない人もいます。このような人のことを無事の人といいます。無事の人とは、何もしない人のことではありません。
ベッドから起きて、顕現した心が一番最初の分離(我と世界)を開始させるポイントを、この段は扱っています。そして、あくまでも心はひとつ、仮の区別であることも忘れないでください。
設(たと)い有るも、皆な是れ依変(えへん)の境なり。
たとえ有るように見えたとしても、すべて、それぞれに依存し、変化していく世界なのだ。
仏教の世界観によると、現象世界は依存と変化の世界です。独立して存在するものはありません。すべてのものが何かに依存しています。
恒常的に存在するものもありません。すべてのものが変化しています。なので、本当の意味で在るといえるものは存在しません。現象世界の本質は空(くう)なのです。
一方、この現象世界を現出せしめている仏性は、現象世界と逆の性質です。依存せず存在するもの、すなわち絶対的な存在です。また変化しません。不変なるものです。
仏性という生命エネルギーのようなものが、浸透していき、世界が現象していく、というのが仏教の世界観です。私たちが「物質と呼んでいるもの」は、実は「認識されたもの」です。認識の外に何があるのかは不明です。認識の内に存在があります。そもそも内外を言うことすらできません。私たちはコレより他に、知ることがないのですから。
もし諸君が何かを求めたりしたら、それは苦痛となるだろう。何も求めぬ無事の人が一番良いのだ。
ここに欲望が問題にされています。修行する際、欲望の問題は避けて通ることができません。お釈迦さまは欲望を意識させるために、戒を設けられました。簡単なものに五戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒)があります。人間が好きなものばかり禁じていますね(笑)。
これらを道徳的な規範とみる向きもありますが、そうではありません。欲望を意識させるための拠り所として設けられたものです。川の水力を知るためには、手を差し入れジッとさせていることが必要です。水力のままに手をなびかせていては、いつまで経っても水力を知ることはできません。戒は欲望の圧力を知るために設けられた、関所のようなものです。
また欲望は、思考と思考に伴う行為を発動させる燃料のようなものです。まず欲望があり、欲望に関する思考があり、思考を満たすために行為を始めます。観察してみてください。
食欲があり、「腹減ったなぁ、何食べようか、あそこに豚カツ屋の看板が見える・・・」という思考が起こり、そちらを目指して歩いて行くという行為が起こります。
この仕組みを見抜き、思考を減らすために、欲望をできるだけ少なくしていくのです。少欲知足は思考を減らすための方法です。最小限の食欲は問題ありません。しかし、しばしば私たちは食べ過ぎてしまいます。これは欲望の奴隷になっているからです。
食欲に限らず、私たちは様々な欲望の奴隷になっています。性に対する欲、お金に対する欲、地位に対する欲、名誉に対する欲・・・等々。これらに繊細に気づいていくために戒があるのです。なぜなら、思考を制するには、欲望についてよく知ることが必須だからです。
戒を守ることは難しく、また煩わしいものです。ついつい「ま、いっか」となり、なし崩しにされてしまいます。自我は欲望に対してストップをかけられることを好みません。何としてでも欲望を満たそうと、あの手この手で屁理屈をこねようとします。それはもう意地汚いというか、浅ましいというか・・・。しかし、そういうことを経験するのも必要です。自我がいかに狡猾に修行を逃れようとするかがわかるからです。
戒は完璧に守る必要はありません(これも自我の言い逃れかもしれませんが)。私も上記の五戒を、意識して守ろうとしてはいますが、守り続けているわけではありません。
戒は仏道修行に不可欠な要素ですが、禅ではあまり強調されません。強調されませんが、上記のような文章を読むと、理解していなかったわけではなさそうです。
そして、もうひとつ重要なポイントがあります。「欲望にはすべて警戒せよ」ということです。欲望には比較的良い欲望と悪い欲望があるように思えますが、一般的に良いとされている欲望にも注意が必要です。
臨済先生が注意を促している欲望は「悟りたい」という欲望です。このような一見良いように思える欲望ですらNGなのです。なぜなら、その欲望が修行者を苦しめるからです。その欲望がかえって悟りを遠ざけるからです。「悟りたい」という欲望は即今であることに背きます。修行者には「何も求めず、ただ坐る」ことが要求されます。
只管打坐(しかんたざ)というのはそういう意味です。
無事の人というのは、そういう意味で少欲知足の人でもあります。少欲知足であるがゆえに、状況に巻き込まれないのです。欲深い人が状況に巻き込まれます。欲望を少なくする、あるいは整理することによって、状況を冷静に見ることができるようになり、他人に騙されなくなります。
「騙された」と嘆く人は、自分の欲望に気づいていない人です。「自分がもっといい思いがしたい」という、いわば助平心、執着心があるから、熱くなり、見えなくなり、騙されるのです。騙された人は「騙す人が悪い」と思っていますから、自己反省はしません。自己反省をしないから、同じことを繰り返します。グルグルと同じ所を回るのです。
自己反省は痛いことです。自分の欠点を認めなければなりません。できれば避けて通りたい難所のように思えます。しかし、私の考えでは、いつかは通らなくてはならない道なのです。それが今なのです。今やるしかないのです。「そのうちやろう」というのは「永遠にやらない」と言っているようなものです。
「永遠にやらない」というのは「永遠に苦しむ」選択をしています。「永遠に苦しむ」という選択をしてしまう人は、自分が苦しんでいることすら知りません。そして、それはそれでかまわないことです。大半の人がそうしていますし、それが人類の基本設定(デフォルト)なのです。
仏道は細く険しい道です。普通に暮らしたいなら、あまり深入りしない方がいいのかもしれません。しかし、誰しも生死の問題に突き当ります。それをできるだけ見ないようにして生きていくのか、見据えて生きていくのか、その違いかもしれません。
もし仏教修行を志したなら、その過程で困難に会うのは仕方ありません。その道を臨済先生は示しています。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。