【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆15

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「瞑想修行は迷いの道を引き返す」こと。

 

①読み下し文

問う、如何なるか是れ四種無相の境(きょう)。

師云く、你(なんじ)が一念心の疑、地に来たり礙(さ)えらる。你が一念心の愛、水に来たり溺らさる。你が一念心の瞋(しん)、火に来たり焼かる。你が一念心の喜、風に来たり飄(ひょう)えさる。若(も)し能(よ)く是(かく)の如く弁得せば、境(きょう)に転ぜられず。処処(しょしょ)に境を用いん。

東涌西没(とうゆうせいもつ)、南涌北没、中涌辺没、辺涌中没、水を履(ふ)むこと地の如く、地を履むこと水の如くならん。何に縁(よ)ってか此(かく)の如くなる、四大の如夢如幻(にょむにょげん)に達するが為(ため)の故(ゆえ)なり。

道流(どうる)、你が祇(た)だ今聴法するは、是れ你が四大にあらずして、能く你が四大を用う。若し能く是の如く見得(けんとく)せば、便乃(すなわ)ち去住自由ならん。

 

②私訳

問い。「4種類の無相とはどのようなものですか」

臨済禅師は言われた。

お前の疑いの念は、地(肉体)と関係し、障害となる。お前の愛の念は、水(肉体)と関係し、溺れる。お前の怒りの念は、火(肉体)と関係し、焼かれる。お前の喜びの念は、風(肉体)と関係し、さまよう。

もし、ここのところがわかったなら、現象世界に振り回されることはない。逆に現象世界を使えるようになる。東に浮いて西に沈み、南に浮いて北に沈み、真ん中に浮いて端に沈み、端に浮いて真ん中に沈む。水の上を地のように歩き、地の上を水のように歩く。

なぜそのようにできるのか。なぜなら、地水火風の4元素(肉体)は夢まぼろしと知るからだ。

諸君、今ここで法を聴いている者は、お前の4元素(肉体)ではない。お前(真我)が肉体を動かしているのだ。

このようにわかったなら、生きるも死ぬも自由自在だ。

 

現場検証及び解説

 

この段は、前回の示衆⑭の続きです。

四大とは肉体のこと、もう少し広く解釈すると、現象世界のことです。肉体を含め、これらはすべては「変化するもの」です。「変化するもの」は「実態のないもの」です。「実態のないもの」を有らしめているのは、真我です。

問題になっている疑い、愛、怒り、喜びは普通、感情と呼ばれているものに属します。感情の根本には思考があります。これらは変化します。疑いは肉体における意識に生まれ、障害となります。愛は肉体における意識に生まれ、耽溺(たんでき)します。怒りは肉体における意識に生まれ、燃え上がります。喜びは肉体における意識に生まれ、さ迷います。

感情は、たとえそれが善きものに思えたとしても、しばしば私たちを振り回します。また、これらの現象世界に属するものは泡沫(うたかた)です。ずっと握りしめていたい、と思っても、それらは指の間から逃れていってしまいます。

逆に招かざる不幸や苦痛も、容赦なくやってきます。拒みたいし、一刻も早くそれから逃れたいのですが、それは一定期間留まり、そして、ありがたいことに去っていきます。楽も苦も、「やって来て、留まり、去って」いきます。現象世界のものは皆そうです。「やって来て、留まり、去る」ものが現象です。

それらの現象を映す鏡のようなものが真我です。真我は不変です。不変であるがゆえに、変化を映すことができます。

瞑想で現象世界を観察することにより、現象世界の本質が変化であることがわかります。ひるがえって、変化がわかるということは、私たちの主体が不変であるということです。「変化を観察しながら、不変を感じる」それが瞑想の基本のように思います。

「不変なるもの」は、どうやら私たち自身のことであり、あまりにも私たち自身に近すぎて、それを対象化することができないようです。したがって、それを「見る」ことはできず、せいぜい感じることができる程度です。ゆえに私たちは、本来の自分である真我を忘れ、現象世界に耽溺してしまいます。

瞑想修行は、その迷いの道を引き返すようなものです。瞑想修行が進んでいく順番を、私の経験から述べてみます。

1⃣ 現象世界を観察し、それに主体が巻き込まれていることに気づく。

2⃣ 今までの習性で、何度も何度も、主体が現象に巻き込まれ、観察がおろそかになります。おろそかな状態に気づき、観察に戻ることができます。現象は私たちとイコールではありません。

観察が絶えている状態を放逸(ほういつ)といいます。また、その状態を「迷い、無明、夢」などという言葉で、仏教は否定します。観察が「覚めていること」です。観察が絶えた状態、すなわち放逸状態が「眠り」です。

仏教は、生きていることを否定しているわけではありません。観察が絶えた状態で生きること、「迷い、無明、夢」状態で生きていることは苦痛ですよね? と。早くそこから目覚めなさい、と促(うなが)しているのです。

そのためには、まず、現象世界をしっかりと観察する必要があります。

放逸状態に気づき、その都度引き返し、観察を続ける、という地味で根気のいる作業が続きます。個人差があると思いますが、すぐに結果を求めないで、気長に瞑想修行を続けることをお薦めします。

3⃣ 現象世界に巻き込まれて迷っている状態が確認されると、自然に巻き込まれる状態が減ってきます。それでも、現象世界はある意味、快楽の要素が強いですから、それから離れるのはなかなか大変です。「わかっちゃいるけど、やめられない」状態が続きます。娑婆(しゃば)の毒を抜く作業が必要です。

薬物依存症やアルコール依存症の方々のように、痛い自分と向き合い、何度も挫折し、一進一退の苦しい戦いが続くかもしれません。テーラワーダ仏教の指導者、アチャン・チャーは「仏教修行は古い友達と縁を切るようなものだ」と言っています。そういう辛さが、この修行にはあります。

「そこまではやりたくない。俺は人生をエンジョイしながら、仏教を学びたいのだ」というのは、私の考えによると、なかなか厳しいかもしれません。しかし、修行の道は人それぞれですので、違う道もあるのかもしれません。これは私の考えです。

 

さて、だんだん話がずれているようにも思います。「臨済録」はどこに行ったのでしょうか(笑)。

ずれたついでに、もうひとつだけ、私の考えを言って終わりにします。

仏教に「戒・定・慧」の三学があります。戒というのは、戒律です。五戒という仏教徒の戒律があります。これは在家者でも守るべき基本的な戒律です。

不殺生戒(ふせっしょうかい)・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)・不邪淫戒(ふじゃいんかい)・不妄語戒(ふもうごかい) ・不飲酒戒(ふおんじゅかい)です。

テーラワーダ仏教では、もちろん戒律は問題にされますが、禅においては、この戒律の問題がすっぽりと抜け落ちているように感じます。私が不勉強なだけかもしれませんが、「無門関」「臨済録」を訳しながら、それがどこにも見当たらないのです。

戒律の問題は人間の欲望の問題です。仏教が目指すのは「個我の消滅」ですが、この個我は欲望に密接に関係しています。自分の欲望を観察することが必須です。しかし、欲望まみれになっていては欲望を観察することはできません。欲望から少し離れる意味で、それを減らすように努めるのが、戒律の意味だと思います。

禅には戒律がなかったのでしょうか? 戒律なしで成り立つ仏教なのでしょうか? 私が知らないだけなのでしょうか? よくわかりません。深入りは避けますが、指摘だけしておこうと思いました。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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