【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁12
こんにちは!
今回は、臨済の罵りひとつ、ほめ棒ひとつ。
①読み下し文
師、杏山(あんざん)に問う、如何なるか是れ露地の白牛(びゃくご)。山云く、吽吽(こうこう)。師云く、啞(あ)する那(な)。山云く、長老作麼生(そもさん)。師云く、這の畜生(しゅくさん)。
②私訳
臨済和尚が杏山に問うた。「露地の白牛の話はどう思うか」
杏山「モゥ、モゥ」
臨済「オシになったか」
杏山「和尚はどう思うのですか」
臨済「この畜生(ちくしょう)め!」
現場検証及び解説
まず、「露地の白牛の話」を説明しましょう。これは「法華経」にある話で、あるお屋敷が火事になり、長者が中にいる子どもを外に導こうとしたところ、鬼ごっこと間違えて笑いながら逃げていってしまう。そこで思いついて「家の外でお前たちが大好きな白牛の車が待っているよ!」と呼びかけ、無事に救い出した、という話です。
長者はお釈迦さまのこと、子どもは凡夫のことです。凡夫は煩悩の世界で泣いたり笑ったりして暮らしています。自分がその世界で苦しんでいること、苦しみの原因に気づきません。また、普通に「そこから出た方がいいよ」と呼びかけても、言うことを聞きません。そこで、「こちらにもっといいものがあるよ」と方便を使って救い出したのです。
こういうやり方は有りなんでしょうか。どこか本道でないような気もします。一度は白牛の車に夢中になった子どもも、飽きれば火宅に戻っていってしまいます。何しろ、火宅であるという認識がないのですから。子どもが「あ、ここはひょっとして火宅かも」と疑問を持ち、自ら脱出の道を手探りしていく、というのが本道のように思えます。
しかし、そのように気づく子どもは少数です。上記のような方便を使い、とにかく仏道になじませるというのも、ひとつのやり方なのかもしれません。方便を使うか、本道で押し通すか、指導者の間ではひょっとしたら悩ましい問題だったのかもしれません。臨済は杏山にその辺の問題を問うたのかもしれません。
しかし、杏山は臨済の問いかけを「即今ゲーム」として捉えたようです。うっかり答えたら即今を外れます。その手に乗るかとばかり、牛の鳴き声を上げます。普化が臨済に「ロバみたいだな」と言われ、ロバの鳴き声を上げたことがありました。あれと似ています。問いかけに観念的には答えてはいませんが、無言でやり過ごすことはせず、別のやり方で答えた、ということです。禅的な答え方です。
臨済はその答えに納得しません。「オシになったのか」と暗にさらに答えをけしかけます。杏山は逆に「和尚はどう思うのですか」と切り返します。ここで臨済が「ワシの考えは・・・」とやったら臨済の負けです。杏山の意図に気づいた臨済は「この畜生め!」と罵(ののし)ります。ただの罵りではなく、杏山の「モゥ、モゥ」に対する返答にもなっています。
また、普化に対する「盗賊!」が即今(境地)を奪う奴、という一種の賛辞であったのと同じように、この「畜生!」にも「やるな、この野郎!」という賛辞が込められているように感じます。
ややこしいですね。
もうひとついきます。
①読み下し文
師、楽普(がくふ)に問うて云く、従上来(じゅうじょうらい)、一人は棒を行じ、一人は喝を行ず。阿那箇(いずれ)か親しき。普云く、総に親しからず。師云く、親処作麼生(しんじょそもさん)。普便ち喝す。師乃ち打つ。
②私訳
臨済は楽譜に問うた。
「今までの例からいうと、棒で示すのが得策か、喝で示すのが得策か」
楽譜「どちらも得策ではありません」
臨済「では、何が得策か」
楽譜は喝した。臨済は打った。
現場検証及び解説
この項は簡潔で、わかりやすいように思います。臨済の問いの中の「喝」と楽譜が下した「喝」は、紙の上で表現すると同じ喝ですが、実際に現場にいると想像した場合、全然違う喝になります。
臨済の「喝」は観念的な喝、言葉にすぎない喝です。一方楽譜が下した喝は即今を指示した喝、現場の喝です。その違いは皆さんにもわかると思います。たとえば「わかりました」という言葉、いろんな場面で聞く言葉ですが、相手がどんなトーンで言っているかによって、全然意味が違いますよね。それと同じです。
本物の言葉と偽物の言葉は見分けがつきます。修行が進めば、それを感知する能力は、益々研ぎ澄まされていきます。
楽普の喝は臨済に認められます。ここはほめ棒です。
なかなか良かった楽譜さん、私からも「良し」を差し上げます、なんて偉そうに(笑)。
今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。