【無門関】やさしい現代語訳・解説 第24則「離却語言」
こんにちは!
今回は「語る」と「黙る」を両立させよ、という難問。
①本則
風穴(ふうけつ)和尚、因みに僧問う、「語黙離微(ごもくりび)に渉(わた)り、如何(いか)にせば通じて不犯(ふぼん)なる」。穴云く、「長(とこし)えに憶(おも)う江南三月の裏(うち)、鷓鴣(しゃこ)啼(な)く処百花香(かんば)し」。
私訳
風穴和尚にある僧が問うた。「語ることと黙ること、離(即今を保つこと)と微(微かに現象世界ではたらくこと)の問題がありますが、どのようにすれば仏法を犯さずにすむでしょうか。風穴和尚は言った。「とこしえに思う、江南の三月、鷓鴣は啼き百花が香る」。
②評唱
無門曰く。「風穴、機掣電(きせいでん)の如く、路を得て便ち行く。争奈(いかん)せん前人の舌頭を坐して不断なることを。若(も)し者裏(しゃり)に向かって見得して親切ならば、自(おのずか)ら出身の路(みち)有らん。且(しばら)く語言三昧を離却して一句を道(い)い将(も)ち来たれ」。
私訳
風穴和尚の機略は稲妻の如く、路を拓いて通り抜けた。しかしどうして前人の語に依って、言葉を断てなかったのか。もしここのところを見抜けたら、自ら解決策を得ることになろう。さあ、おしゃべりをやめて、一句持ち来たれ。
③頌
不露風骨句 未語先分付 進歩口喃喃 知君大措罔
私訳
抒情の句は(仏性そのものを)表しているとは言えない。未だ言葉にならないうちに分かれてしまう。歩めばペチャクチャおしゃべりばかり。君は知るだろう、言葉を重ねても徒労に終わることを。
現場検証及び解説
【本則】
僧の質問も難解ですが、風穴和尚の答えも難解です。長しえ(永久)云々は、杜甫の詩からの引用です。杜甫の詩を借りて、難問に見事に答えた、という図らしいですが、私たちが理解するには、いささか説明が必要のようです。
まず、質問の「語黙離微」ですが、語黙は「語ると黙る」でわかりますが、離微がわかりにくいです。このシリーズで何度も繰り返し訴えている、白スクリーンと映像の比喩で、このことを説明してみます。
人間の認識は白スクリーン(即今、無、真我、ワンネス)と映像=現象(眼耳鼻舌身意)で成り立っています。これは覚者も凡夫も同等です。覚者は白スクリーンとその上に映る現象世界両方を知る人ですが、凡夫は現象世界がすべてだと思っています。白スクリーンの自覚がないのです。
この則は白スクリーンと現象世界の両方を知った者が、いかに、片方だけに依ったあり方に居つかず、自由自在でありうるか、というテーマを扱っています。非常に高度な問題です。
「語る」は現象世界(時空間)、「黙る」は即今(無時空間)を表しています。離微はこれの繰り返しです。「離」が即今、現象世界を離れるという意味でしょう。「微」は現象世界、覚者は現象世界とガッツリ関わるのではなく、微かに関わって用事が済めば即今に戻る、というようなことでしょう。
また、注意したいのは、即今と現象世界(白スクリーンと映像)はコインの裏と表のような関係だということです。どっちか片方だけ取る、というのは不可能です。語の裏に黙、離の裏に微があるのです。それらは矛盾していますが、禅はその矛盾を超えてみよ、と迫ります。
古武術家の甲野善紀先生の言葉に「矛盾を矛盾したまま取り扱う」というのがありますが、そのようなことなのかもしれません。
「とこしえに思う」というのは「永久に思う」ということで、「思う」とありますが、思考ではなく無思考状態を表しています。江南以下の文章は現象世界の多様性を表現しています。
無思考状態を実現しながらも、現象世界を自由自在に映し出す、そしてそこに拘泥しない。そのようなありかたが禅仏教の覚者としてはベストだぞと、こういうことです。
【評唱】
難問を投げかけられながらも、的確な答えをした風穴和尚の対応は見事です。しかし、無門先生は素直には褒めません。先人の言葉(杜甫の詩)を借りくるとは・・・と苦言を表します。そのくせ、読者に向かって「この場面に向かい、一句言ってみよ」とけしかけます。
【頌】
風骨というのは岩波文庫の解説によれば、「魏の詩風の格調の高い抒情性をいう」とのこと。また、風穴和尚の風と掛けているのかもしれません。
即今を「とこしえに思う」で表現しますが、一方で即今は言葉では表現できないことも、無門、風穴共に承知しているはずです。表現しておきながら、実は表現できないのだ、と言いたがる。そこが、禅者のややこしいところ。
「未だ言葉にならないうちに分かれてしまう」というのは、言葉にする前に思考があるからでしょうか。
最後の句、罔は漢和辞典に「魚を捕る網」または「ぼんやりしたさま」とあります。「措」は「おく」と読み、重ねるという意味です。
言葉でソレ(即今、白スクリーン)をとらえようとしても、網で何度も水をすくおうとするようなもの・・・というようなイメージです。
白スクリーン、即今は言葉では捉えられない、対象化できない。なぜなら、それは私たち自身(個人ではなく、ワンネス)のことだからだ。このテーマは何度も何度も禅仏教で繰り返されます。ただ、「言えない」と断言しながら、「一句言ってみよ」と迫ります。
第五則の「香厳上樹」もそのテーマでした。
さて、今回はこの辺で。
第25則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第25則「三座説法」