【無門関】やさしい現代語訳・解説 第16則「鐘声七条」
こんにちは!
今回は始業ベルが鳴ると、なぜ職場に戻らねばならぬのか、の話。
①本則
雲門曰く、「世界恁麼(いんも)に広闊(こうかつ)たり。甚(なん)に因(よ)ってか鐘声裏に向かって七条を披(き)る」。
私訳
雲門和尚は言った。「世界はこんなにも広々としている。なのになぜ、鐘が鳴ると袈裟を着て正装しなければならないのか」
②評唱
「大凡(おおよ)そ参禅学道、切に忌(い)む、声に随い色を逐(お)うことを。縦使(たと)い聞声悟道(もんしょうごどう)、見色明心(けんしきみょうしん)なるも也た是れ尋常なり。殊に知らず、衲僧家(のうそうけ)、声に騎(の)り色を蓋(おお)い、頭頭(ずず)上に明らかに、著著(じゃくじゃく)上に妙(みょう)なることを。是くの如くなりと然雖(いえど)も、且(しばら)く道(い)え、声、耳畔(にはん)に来たるか、耳、声辺(しょうへん)に往(い)くか。直饒(たと)い響(きょう)と寂(じゃく)と双(なら)び忘ずるも、此に到って如何んが話会せん。若し耳を将(も)って聴かば応に会し難かるべし。眼処(げんしょ)に声を聞いて、方始(はじ)めて親し」。
私訳
一般に参禅学道の人は、音に従ったり物を追うことを大変嫌がる。音を聞いて悟ったり物を見て悟ったりすることもあるにはある。しかしわれわれ僧のうちで、音に聞き入り見るものに溺れた状態で、頭も冴え行いも良しという話は全くない。しかしながら、言ってみよ。音が耳に届くのか、耳が音に向かうのか。また、響きと静寂ともに滅するのをどう説明するのか。もし耳で聞くなら理解は難しい。眼で音を聞いて、初めてこのことが理解できる。
③頌
会則事同一家 不会萬別千差 不会事同一家 会則萬別千差
私訳
事同一家(ぶっ続き)がわかるなら、千差万別という景色は見ない。
事同一家(ぶっ続き)がわからないなら、千差万別を見るだろう。
現場検証及び解説
【本則】
「世界はこんなにも広々としている」とは物質的な世界のことをいっているのではありません。私たちの意識の世界のことを言っています。意識の広い世界というのは、前にも例にあげましたが、即今(白スクリーン)のことです。
即今は何でも受け入れます。一切のものを拒絶しません。それが私たちの意識の性質です。色声香味触法みんな受け入れます。また、それが去っていくことも拒みません。そのような性質をふだん私たちは意識しませんが、あらためて考えてみると非常に不思議な性質です。私たちは例外なく、この仏性という認識の光の中で生きています。それに個別性はありません。同じ仏性が別々の肉体を通じてはたらいている、というのが真実なのです。
ですから、私たちは本来ひとつなのです。「世界はこんなにも広々としている」とはそういう意味も含んでいます。個人がいるというのは思考の幻想に過ぎません。しかし、一般社会は個人がいるという幻想に基づいて成り立っています。無我であるからといって、傍若無人に振る舞うわけにはいきません。そこで、「鐘が鳴ると袈裟を着て正装する」のです。
本来は自分が何者でもない仏性(=真我)であることを、禅僧は知っています。そこには自由があります。しかし、世間に出ていくときは、あえて個人としての役割を演じきるのが、禅僧の真骨頂です。
【評唱】
「一般に参禅学道の人は、音に従ったり物を追うことを大変嫌がる」とあります。確かに修行は、あまり刺激的な音楽に親しんだり、激しい映像は観ない方がいいように思います。私の場合、アクション映画を観た翌日の坐禅は、映像が頭の中で勝手に再生されることが多かったです(笑)。
音を追ってそれに耽るのは良くない、物事を追ってそれに夢中になるのは良くない、どこか覚めた意識をもって日々過ごしなさい、ということでしょうか。生きていれば、いろんな現象と関わるわけですが、それに没頭してしまうのではなく、覚めた意識で観察を絶やすな、ということだと私は解釈します。
よく禅では「物事に成り切ってやりなさい。思案を挟んではいかん」といいますが、これは思案がいけないので、観察を絶やすことではないと思うのですが、どうでしょうか。禅の「成り切り」という言葉を聞くたびに、このことが気にかかります。
「音が耳に届くのか、耳が音に向かうのか」は面白い問題です。聞き耳を立てているときは「耳が音に向かっている」ように思うし、騒音に悩まされているときは「音が耳に届いている」ように感じられます。
響きと静寂ともに滅する、とはどういうことでしょう。響きが滅するはともかく、静寂が滅するとはどういうことでしょうか。ひょっとしたら、サマーデイ(三昧)の状態のことを指しているのかもしれません。私はそこまで瞑想は進んでいませんので、何とも言い難いのが残念です。
次の「もし耳で聞くなら理解は難しい。眼で音を聞いて、初めてこのことが理解できる」というのも難解です。推測ですが、これは認識の共通基盤のことをいっているのではないでしょうか。その基盤では音が映像化されることもあるのかもしれません。映像を観て音楽を連想することもあるわけですし。
ただ、これも実感として「眼で音を聞く」体験をしたわけではありませんので、単なる私の思いつきに過ぎません。
【頌】
事同一家というのは「思考が関与する前の認識状態」のことを言っています。それを「ぶっ続き」と訳してみました。一者でもよかったし、ワンネスでもよかった。切れ目のない世界に切れ目を入れるのは思考です。その切れ目の一番最初が「私と私以外」です。しかし、本来はそんな区別はありません。思考が「私は特別な存在!」と言い張っているのが真実です。
ですから、区別のないぶっ続きの世界に身を置く人(覚者)に他者は存在しません。全部が「私」として認識されているのです。そこに千差万別はありません。
逆にぶっ続きがわからない人(凡夫)は、千差万別を見ますから、自分の身を守ったり、自分の利益を追ったり、怒ったり、嘆いたり・・・大変なわけです。
なかなか、ぶっ続きを納得するのは簡単ではありませんが、不可能なことではないと、私は思っています。チャレンジする価値は充分にあると思います。覚者に言わせれば「この世で唯一価値のあること」で、他の事に価値は一切ないとのことです。
ザ・ローリングストーンズの「サティスファクション」は、世間の価値(欲望)を追っても結局は虚しいことを歌った名曲です。どんなことをしたって本当の満足は得られない。炯眼です。その後メンバーが出家したという話は聞きませんが(笑)。
今回はこの辺で。また、第17則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第17則「国師三喚」