【無門関】やさしい現代語訳・解説 第13則「徳山托鉢」
こんにちは!
今回は師家から弟子へ、法継をめぐってのエピソード。
①本則
徳山、一日托鉢(たくはつ)して堂に下る。雪峰(せっぽう)に「者の老漢、鐘も未だ鳴らず鼓(く)も未だ響かざるに、托鉢して甚(いず)れの処に向かって去る」と問われて、山、便(すなわ)ち方丈(ほうじょう)に回(かえ)る。峰、巌頭(がんとう)に挙似(こじ)す。頭云く、「大小の徳山、未だ末後の句を会せず」。山、聞いて侍者をして巌頭を喚び来たらしめて、問うて曰く、「汝、老僧を肯(うけが)わざるか」。巌頭、密に其の意を啓(もう)す。山、乃ち休し去る。明日陞座(しんぞ)、果たして尋常(よのつね)と同じからず。巌頭、僧堂前に至り、掌(たなごころ)を拊(ふ)し大笑して云く、「且(しばらく)く喜び得たり老漢末後の句を会せしことを。他後、天下の人、伊(かれ)を奈何(いかん)ともせず」。
私訳
徳山はある日、自分の茶碗を持って食堂にやって来た。そこにいた(弟子の)雪峰が「この老和尚、まだ(食事の)鐘も鳴らず太鼓も鳴らないのに、茶碗を持っていずれの処にか去る」と問うたので、徳山は回れ右して自分の部屋に帰ってしまった。雪峰はそのことを(仲間の)巌頭に話した。巌頭は言った。「あれほど優れた徳山和尚も、未だ末後の一句を会得していないとみえる」。徳山はその話を聞いて侍者を通じて巌頭を呼びつけ、次のように問うた。「お前、この俺を(覚者であると)認めないのか」。巌頭は内密にその訳を話した。徳山は納得して帰った。
翌日の(徳山の)説法ははたして普段とは格段の出来であった。巌頭は僧堂前で、手を叩き大笑いして言った。「やれ嬉しや、老和尚が末後の一句を得よったわい。これからは世界中の誰も、あの方に手出しはできまいぞ」
②評唱
無門曰く。「若し是れ末後の句ならば、巌頭、徳山、俱(とも)に未だ夢にも見ざる在り。点検し将(も)ち来れば、好(はな)はだ一棚(いっぽう)の傀儡(かいらい)に似たり」。
私訳
もしこれが末後の一句ならば、巌頭、徳山ともに夢見の状態だ(覚醒していない)。(この状況を)よく見て調べてみれば、舞台上の操り人形のようだ。
③頌
識得最初句 便会末後句 末後與最初 不是者一句
私訳
最初の句がわかれば、末後の句もわかる。末後と最初は同じ句ではない。
現場検証及び解説
【本則】
ネットで雪峰を検索してみました。雪峰は徳山の法嗣を継いだのですね。そして、このような一文がありました。要約します。「雪峰は徳山に師事したが、数年しても開悟できず、巌頭、欽山と巡歴の旅に出た。旅の途中、雪に足止めされて数日間同じ場所で坐禅を続けたが、巌頭に諭されて悟りを開いた。その後、徳山の法を継いだ」とあります。どうやらこの則は、このような史実を踏まえてのもののようです。
つまり、雪峰の開悟に関与した巌頭、徳山の法を継いだ雪峰ということを念頭に置いて読むとこの則がわかってきます。
茶碗を持ってやってきた徳山を、雪峰はなじっているように見えますが、ここは問答を仕掛けているわけです。「いずれの処にか去る」というのは茶碗を持った徳山の行動のことを取り沙汰しているわけではありません。徳山の境地を問うているのです。「あなたの自我はどこに去っていくのですか」という問いです。禅お得意の根本をいきなり正すというやり方です。
しかし、雪峰の意に反して、徳山は相手にせず、サッと行ってしまいました。雪峰はそのことを仲間の巌頭に告げます。巌頭はここでおそらく策を弄します。未悟の雪峰に向けて徳山から一句言わせようとするのです。わざと徳山にケチを付けます。
ちなみに末後の一句というのは、臨終前の一句とは全然違う意味なので注意してください。末後の一句とは、自我が死んだ後の一句、という意味です。自我が死んだ後、真我と一体になった状態を本当は言葉では言い表せません。言うに言われぬ境地なのですから。
しかし、言わなければ法を伝えることができません。末後の一句とは言語化できない境地をあえて弟子に向かっていう、ということなのだと思います。
巌頭は徳山におそらくこのように言ったのではないかと想像します。「いや、あなたを認めないわけではありません。雪峰がもう少しのところで悟れずにいます。どうか、あの者に究極のお示しをいただきとうございます」。
翌日の様子に雪峰は出てきませんが、徳山の説法の出来が良かった、巌頭も喜んだとの描写がありますので、おそらく雪峰の覚醒が起こったのだと思われます。これでめでたく、法は継がれました。
【評唱】
「もしこれが末後の一句ならば」と無門先生はおっしゃいますが、その一句とやらは、テキストのどこにも見当たりません。格段の出来の説法だとの描写はあるのに、肝心の一句が伏せられているのはなぜでしょう。言葉では言い表せないという含みがあるような気もします。
「巌頭、徳山ともに夢見の状態だ(覚醒していない)」というのは、禅お得意の抑下の托上(けなしながらほめている)なのでしょうか。
巌頭と徳山が画策して雪峰を悟らせたという図絵ですが、放っておいても時期が来れば雪峰は悟ったのかもしれません。そうすると2人の工作は猿芝居めいたものといえなくもありません。そのことを無門先生は揶揄している(揶揄しながら讃えている?)のかもしれません。
いつもながら、無門先生のお言葉は、本則をさらにわかりにくくするための言説のようにさえ思われます。
非力は私は問題点を指摘するくらいのことしかできません。
【頌】
最初の句というのは、おそらく雪峰の「いずれの処に向かってか去る」に対する答えの句だと思います。言い換えれば、自我が去る先を示す語です。仏性あるいは無のことです。自我から無我への一句です。
それに対して、末後の句は去った先から、つまり無我から自我への一句です。
最初の句がわかれば、末後の句もわかるというのは、去った先がわかるのなら帰る道もわかるだろう、ということでしょうか。2つの句は同じではないというのは、向きが反対だから、自ずと句も違ってこよう、ということでしょうか。
肝心の句が不明なままの検討ですが、「法の核心は言語化不可能なのじゃ」という禅の頑なさ、あるいは一本気が感じられるようにも思います。
ではまた。第14則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第14則「南泉斬猫」