瞑想知恵袋 その41 「十牛図」の新解釈

 

 

こんにちは!

 

お久しぶりです。5月にこのブログを閉鎖する予定です。正確には、いつかはわかりませんが、自動更新を解除したので、おそらく近いうちに閉鎖されます。

今後はXで地道に、短く発信していくつもりでした。

ところが、ひとつだけ(矢野顕子に同名の名曲がありますね、大好きです。それはともかく)言い残したことがあることに、今日ふと気づいてしまったのです。で、何の準備もなく、勢いで書き上げるつもりで、いまキーボードに向かっています。

 

毎度お断りしていますように、私は在家の中途半端な修行者です。学問もありません。とうてい、伝統的な禅文化に口出を挟むような資格はないのかもしれません。でも、違うことは違うと言いたい。また、私が間違っているなら、理を尽くして訂正して頂きたいと思います。それは謙虚に受け止めたいので、どうかこれから述べることに、お腹立ちなさらないよう、お願い申し上げます。

もし、俺はこんな半端野郎の言うことは聞きたくとおっしゃる方は、どうかここでとどまっていただいて、パソコンを閉じるなり、スマホをスワイプしてくださいませ。

 

十牛図とは

 

まず、十牛図を知らない方に簡単に内容をお知らせします。その上で従来言われていることと、私の考えの間に大きく違いがある、というお話をしたいと思います。

十牛図はいろんな絵があり、基本的には似たり寄ったりなのですが、所々違います。解説も同じく、です。ここでは手元にたまたまあった「公案 実践的禅入門」(秋月龍珉 ちくま文庫)を参考にいたしました。もちろん、私のアレンジが含まれていますが、基本設定は変えていませんので、ご心配なく。

本文中の若者とは修行者であり、探求者の表象です。

 

①尋牛・じんぎゅう(絵・山の中に若者が立っている) 牛を探しているのだが、未だ手がかりなし。

②見跡・けんせき(絵・牛の足跡を見つけ、若者は走りだす) 行動開始。

③見牛・けんぎゅう(絵・牛の尻尾を見つける若者) 見つけたり!

④得牛・とくぎゅう(絵・牛の首に縄をかけた若者。牛の勢いに引っ張られている) 牛強人弱。

⑤牧牛・ぼくぎゅう(絵・牛は大人しくなり、若者に引かれていく) 牛は若者に手なずけられる。

⑥騎牛帰家・きぎゅうきけ(絵・若者は牛にまたがり笛を吹いている) 牛と若者の一体化。

⑦忘牛存人・ぼうぎゅうそんにん(山中のあずまやの表にしゃがむ若者) 牛の姿はない。

⑧人牛俱忘・にんぎゅうくぼう(絵・中に絵のない真っ白な円のみ) 何も無い状態。

⑨返本還源・へんぽんげんげん(絵・木の枝に花) 人もなく牛もいない。

⑩入廛垂手・にってんすいしゅ(絵・老人=覚者が若者に手を差し伸べている) 衆生済度。

 

牛は「真の自己」とするより「自我=エゴ」とした方が修行の実態に近い

 

十牛図は修行の過程を表したもの、とされています。そしてたいていの方は、私の知るかぎり、ほぼ100%、牛は「真の自己」とされていました。敬愛する故河合隼雄先生も、そのように解釈して、心理学的解釈を付されていました。河合隼雄先生の本は禅を始める前からよく読んでいたので、牛は真の自己であり、自己実現の象徴だという認識が、私の中で不動のものとなっていました。でも、なんだか、しっくりこない感覚はもっていました。

そして、私が在家の修行者として何年か経ったとき、十牛図を思って、「あれ? 牛って、これエゴのことじゃね?」と思ったのです。よく考えて検討してみると、修行の実態と引き比べても、エゴとした方がしっくりときます。

 

というのは、坐禅を始めて最初の難関が思考です。「無」になるために、必死に「ムゥ! ムゥ!」と念じるわけですが、うまくいかない。ハッと気づくと妄想の罠にはまり込んでいる・・・。自分をしかりつけ、ダメだダメだと諫めながら、それでも思考は消えてくれない。

いや、むしろムキになるほど思考は激しくなってくる傾向があるようだ。じゃあ、どうすれば、思考は大人しくなるのだろうか・・・?

そんな悪戦苦闘が、十牛図の得牛と重なったのです。

そこから、牧牛、騎牛帰家と「エゴを飼いならしていく・・・」エゴがある程度存在していながらも暴走しない状態。あるいは、孔子の「心の欲する所に従えども矩を踰えず(のりをこえず)」の境地が連想されます。

ですから、早い話が、牛を「真実の自己」として最終目標にする必要は全くない。また、牛を「真実の自己」としてしまったら、牛が消えたあと、「真実の自己」は一体どこへ行ってしまったというのでしょうか。

 

そのことも、「牛=エゴ」説を思いついたときに、同時に思い浮かびました。では、この絵の中で「真実の自己」はどこにあるのでしょうか。表されていないのでしょうか。表されているとしたら、どのように表されているのでしょうか。

それは割とすぐに思い浮かびました。絵で言うと、円がそれにあたります。私流に言うと「真我=仏性=本来の面目」は不動のものです。むしろ、対象化されえないモノです。それに一番近い表象は、ただの◯のように思います。その他のものは全部、真我の多種多様なあらわれです。

 

ヒンズー教では、⑦忘牛存人の段階でゴールのような印象があります。真我実現をしてしまえば、とりあえず終了。

⑧人牛俱忘、⑨返本還源、⑩入廛垂手は、中国の文化というか、大乗仏教の衆生済度の思想が感じられます。悟って終わり、でなく、そこから一歩踏み出して、衆生済度せよと。

 

まとめ的に

 

さて、伝わったでしょうか? 主張するほどのことでもない? そうかもしれません。でも、これを言っとかないと、ブログ成仏できないような気がして、今日は午後からこれに集中していました。

言いたいことは、端的に言えば、牛を「真の自己」としてしまうと、この絵を誤解することになりかねませんよ、ということ。牛はエゴ=自我です。坐禅中、思考がままならぬことを、犬や猿に例えて言うことがあります。牛もその体(てい)で使われているような気がします。

 

また、①尋牛、②見跡、③見牛の部分で感じるのは、坐禅会の参加者の中で、「自分が思考まみれであることにすら気づいていない」方がいらっしゃったことです。ただ、ボーっと1時間ばかり座っている。で、「私なーんにも考えてないっ!」とおっしゃる。そんなはずはないのですが・・・。おそらく、思考を観察するには、それなりの条件と訓練が必要なのです。①~③は思考を見つけて、観察を始めるまでの、初心者のたどる過程とみるとしっくりきます。

 

そういう意味でも、牛は「エゴ=自我=思考」と見た方が良い。お釈迦様は、「自我は想念の束」とおっしゃいました。自我は自分という幻想です。

そして、想念(思考)がままならぬことを、私たち修行者はよぉーく知っている。

 

牛が真の自己であるはずがない、ように思えるのですが、いかがでしょうか。若輩者が(年寄りですが)生意気なことを言い、お腹立ちの方もいらっしゃるかもしれません。が、正直な感想を述べただけで、悪気はないのです。どうか、太く寛容にお見逃し下されば、有難く存じます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

では、さようなら。

 

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