瞑想知恵袋 その31 理解するとき、そこには愛が・・・

 

 

こんにちは!

禅寺修行時代の話を続けます。

思考から分離して観察の拠点を発見した。観察は、思考を悪者扱いするのではなく、慈悲をもって観察する、というのが前回の話でした。この話は結構奥が深く、乗り越えがたいポイントですので、もう少し別の角度から続けてみましょう。

云意というピットホール

禅僧の藤田一照さんの名書「現代坐禅講義 只管打坐への道」(角川ソフィア文庫)にはこうあります。

「道元禅師はこのような、何かを目標として立てて意識的・意図的にそれを目指して無理矢理に強引に行なうのを強意(ごうい)と呼び、それに対して思慮分別を離れて自ずから発動してくる自然な行ないのことを云意(うんい)と呼んで対比させています。坐禅はしばしば強意の積み重ねのように思われていますが、それは全くの誤解です」

私の偏見かもしれませんが、禅の本、指導者は、体育会系の「努力・我慢・一心」を強調していたような気がします。で、私たちは強意の坐禅を永遠と続けてしまう・・・。

しかし、こういう状況であっても仕方ないなあ、という思いも一方で私にはあります。なぜなら、一般社会には、何かを達成するときには努力というオプション(選択肢)しかないからです。常に人からかけられる、あるいは人にかけやすい言葉が「がんばれ」です。

そういう社会で育ってきた私たちに「思慮分別を離れて自ずから発動してくる自然な行ない」と言われても、反射的に「自然な行ないはどのようにすれば可能なのでしょうか」と方法を聞いてしまう。方法は強意です。だから、ダメなのですが、それ以外の方法を思いつかないのです。

だから、云意というのは、私は未だにハッキリとはわかりません。自然に瞑想がうまくいき、それを振り返れば事後的に「云意が働いた」と言えることは言える。そういう意味では、他力とも言えると思います。他力を意図的に行なったり、呼び込むことは理論的に不可能です。意図すれば、それが云意を台無しにしてしまいます。

これは全ての修行者が陥るピットホール(落とし穴)のようです。

 

理解するとき、そこに愛がある

云意については未だにわからない私ですが、エゴ(思考)の醜さには耐えて見続けてきたつもりです。こちらは、目を背けずにいれば、必ずわかってくることですから。エゴは「言い訳」「優越感」「劣等感」「夢想」「自己弁護」「屁理屈」「現実逃避」などなど、いろんな技を使って常に自分を守ろうとしています。

なぜなら、エゴは幻想だからです。確固として存在しているなら、手間暇かけてケアする必要はありません。ところが、エゴは自分が幻想であることを薄々感じているらしく、常に自信を持たせるように思考やイメージでもって、誘導していきます。思考を観察してその内容を検討すると、たいていはエゴをケアする行為です。

そして私が感じたのは、自分の中に、エゴというもう一つの生き物のようなものがいる! という発見だったのです。その頃は「慈悲をもってエゴを見なければダメ」だということも知りませんでしたので、驚きもありましたが、辛くもありました。そのときは、「こういう辛いところを通らないと悟りは開けないのだ」と思って我慢していました。

我慢もある程度は必要かもしれませんが、一方で「エゴや思考を悪」と決めつけるのではなく、そのような思いにたいする共感と理解が大切です。それは後に学びました。

ベトナムの禅僧、ティク・ナット・ハンは「理解するとき、そこに愛があります」と言っています。とても好きな言葉です。他人に対しても自分のエゴに対しても、不可解な言動が「ああ、そうか、それでこの人(エゴ)はこういう言動をするのだ」と理解できれば、許せますし腹も立たないのではないでしょうか。そして、不思議なことに心の底から共感できれば、他人もエゴも大人しくなります。これは真理だと思います。

私は自分の中のエゴを「内なる不良少年」とあだ名し、できるだけ寄り添うようにしています。変に甘やかすのは間違いです。厳しく接することも、ときには必要かもしれません。真に愛情に満ちた、親心のようなものを持ち続けてエゴに対していけば、うまくいけば成仏してくれるかもしれません。

 

良寛の慈悲

ここで、うろ覚えですが、良寛のエピソードを披露して、まとめに変えたいと思います。

良寛にはたちの悪い甥っ子がいました。真面目に働かず、酒・博打・女に明け暮れる不良少年です。その若者の親父がたまりかねて、良寛に説教をしてくれ、と頼みます。

良寛はそれを引き受け、その家を訪ね何日か滞在しました。甥っ子はてっきり激しくられるか、長々と説教されるかと、びくびくして数日が過ぎました。ところが良寛は何も言わず、ただ家にいるだけでした。とうとう良寛が家を辞す日になりました。

昔ですから、履物は草鞋(わらじ)です。良寛の草鞋を玄関先で甥っ子が結んでやります。と、結ぶ手の甲にぽたぽたと水滴が落ちてくる。何かと思って見上げると、おじさん(良寛)が涙を流しているのでした。甥っ子は・・・さすがに胸を突かれたのでしょう。以来改心して真面目に働くようになったそうです。

いい話ですね。

 

今回はこの辺で。

 

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