瞑想知恵袋 その25【「自由への道」(アジャシャンティ著  ナチュラルスピリット)精読】⑧

 

 

こんにちは!

前置きなしで、前回の五つの基盤を順次検討していきましょう。

青がアジャシャンティ、黒が私。

 

①志を明確にする

アジャシャンティのサイトで原文を確認したところ、「Claruty your Aspiration」とありました。Aspiration(アスピレーション)とは、願望とか大志とも訳せるようです。

アスピレーションという語は、ビジネスでも使用されるらしく、面接の際に入社希望者に対して「あなたはこの会社に入って、何がしたい(願望)のですか?」というように、使われるようです。面接官は希望者から「金が稼げるから」(それはそれで大切な要素ですが)というような受身な態度ではなく、もっと積極的な態度が見たいのです。

要するに、「○○の開発に取り組みたい」とか「営業利益を2倍にします」とか、その手の答えをを期待するのです。

ここでは「志」と訳されていますが、それよりももう少し強い言葉、大志とか熱望とか、そういったニュアンスがある言葉です。

 

禅を始めるにあたって、そんな御大層な理由を抱えてくる人は、ほとんどいません(笑)。私の場合は夢に「あとは、修行しかない」というひと言が出てきたからですし、途中からは「禅でうつ病を治してやろう」という野望を抱いたからでした。今は2転3転して・・・強いて言えば「苦から逃れたい」一心でしょうか。

私の中では「苦=エゴ」ですので、なんとかエゴを乗り越えて自由に生きたい・・・そうすれば自分を幸せにするだろうし、その影響で周囲の人びとも幸せにできるのではないか。それが、今の段階での志かなあ。

 

これは将来の目標としてではなく、この瞬間瞬間についてです。

ということは、常に即今を行じていくこと、に尽きるように思います。「将来の目標」ではなく、「この一瞬の目標」なのです。「将来の目標」が水平方向に延びていく線や面のようなものとするなら、「この一瞬の目標」はその水平面に突き刺さる棒のようなものです。「今という永遠の場所で、あなたは何を目指しますか?」と言い換えれば、わかるかも。いや、余計にわからないか・・・。

スピリチュアルな探究とは自分にとって何なのか、内面的に掘り下げ、黙考し、瞑想してください。他人に自分の志の定義してもらうことのないように。完全にはっきりと自分が何を望んでいるのかを見出すまで内面を見つめてください。

アメリカ人らしい、言葉ではっきりとさせておこう、という強い意志のようなものを感じます。決してこういう態度は嫌いではないのですが、入口としてちょっと厳しすぎるような気もいたします。しかし、日本人はあやふやなまま進んでいくという悪癖がありますから、こういう定義を、修行の節目節目でやっておくのもいいかもしれませんね。

不動の志である必要はないのです。とりあえず「こうだ」という方向性を決めてやっていけばいいのだと思います。ただ、やってはいけないのは、他人のお尻にくっついていくこと、特に教祖様にくっついていって、教祖様の志の定義を丸吞みして(盲信して)自分で考えようとしないのは、愚の骨頂と言えるでしょう。

そういう方々が多いので、アジャシャンティもあえて、このような厳しいことを、最初に言うのではないでしょうか。また、随時五つの基盤を検討していきますが、すべての項目において、「自分で考えてください」のメッセージが込められているように感じます。

 

話は変わりますが、鎌倉時代の名僧に明恵上人がおられます。この方の教えは「あるべきようは」の七文字でした。上の話と関連するところがあるように感じますので、「明恵上人遺訓」の原文をご紹介します。

「人は『あるべきようは』という七文字をたもつべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。ないし、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。この『あるべきよう』に背くゆえに、一切悪(わろ)きなり。

我は後世(ごせ・死んだ後)助からん(助かろう)と言う者に非ず。ただ現世に、まず『あるべきようにてあらん』と言う者なり」

 

「後世助からん」というのはおそらく浄土宗のことでしょう。明恵上人は浄土宗を激しく非難した方です。また、『あるべきように』ではなく、『あるべきようは』であることが素晴らしい、と感じます。『に』なら、予め正解がありそれに合わせて自分の行動を寄せていく感じですが、『は』は疑問形で、自分でその都度答えを出していく厳しさがあります。禅の『即今を行ずる』あり方とも一脈通じます。

また、少し強引かもしれませんが、アジャシャンティの態度とも通じるものを感じたので、ご紹介しました。

 

私も経験がありますが、禅の修行に夢中になるあまり、家族や仕事をないがしろにしてしまうことがありました。自分の人生が辛く感じられるため、禅の修行に逃げていたのかもしれません。私だけでなく、そのような事態は結構な頻度で起こります。そうなると、修行もうまくいかなくなるし、人生の方もまずいことになっていく可能性があります。修行にはそのような危険があることも承知の上で、始められるのが賢明かと思います。

それとも、羽織袴を着て、頭も剃って、禅の格好だけ整えて、年増にもててみたいですか? そういう人もたまーにいますね(笑)。でも、それは仏教とは別物です。

本当の仏教は、大変厳しく、倫理的で、細く長い道のりを独りで行かなくてはなりません。私も「これから修行だけをやっていけばいいんだ、簡単なことだ、わーい!」みたいな時期もありました。考えが甘かったですね。今では「この修行、果たして死ぬまでケツを割らずにやり通せるのだろうか?(悟る悟らないはともかく)」と日々自問自答しています。

辛く厳しい話に、みなさんに付き合わせてしまって、すまなく思います。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

 

つづく。

 

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