瞑想知恵袋 その15【「禅 空を生きる」アジャシャンティ著 太陽出版ー感想文④】

 

 

こんにちは!

抜粋とコメントを続けます。

 

●「他者はいない」という意味を説明してくれる教師は不要。あなたはそれを自分自身で体験しなければならない。

●私たちは何か特別なものを愛することには慣れていますが、ただあるがままにすべてを愛することにはとても不慣れです。

●あるがままに、すべてを受け入れようとする意志が大切です。

コメント「すべてが自分だと思えたら、愛することはたやすいかもしれない。だが、簡単にはそうはならない。本当の愛を知るためには、拒まない、受け入れること、柔らかくなること、静かにしていること、できない自分を責めないこと・・・できるだけそのようにしてみよう」

 

●「私はいつになったら、本当に自由になれるのだろうか?」と思ったとたんに、時間が自らの存在を誕生させてしまう。

●探し求めているものは「この瞬間」にはもうないかのようにマインド(思考)はふるまう。ところが「今」とは時間の外にあるもの。

コメント「『この瞬間』のことを、日本禅では『即今』という言い方をします。無時間の今、無空間のここ・・・。時間や空間は、実は思考が創り出している仮想のものだということ。

そんな話を喫茶店で、禅友と熱心に話していたら、近くの女の子二人が顔を見合わせて、ヤバっ・・・みたいな雰囲気を醸し出していた。公衆の面前ではあまりこういう話はしない方がいい。

でもね、一般社会の基本的な考えの方が、よっぽどヤバいし、盲信に基づいていると、おじさん(体力的にはもうおじいさんかも)は断言できます」

 

●あなたは内心「私はここにいるけれども、ここが好きではない。わたしはどこか悟りが体験できる場所に行きたい」と感じている。

●「本当はあなたは一度もここにいたことがない」と師に告げられる。

●肉体は人生を体験しているが、マインドは「人生に関する私の空想」を体験している。

●ここにいるためにあなたがすることは、自分に関する概念を手放すこと。

コメント「坐禅中ふと思考やイメージに耽ってしまうことがある。そんなときは、まずそれに気づき、『それをしている奴は誰か?』と問う。すると『エゴという幻想の私がしている』と答えが出る。そうすると、エゴは引っ込む。これは、ラマナ・マハルシの教えだ。

また、著者は『思考が実際に役に立っているか、熟考してください』と言う。確かに考えやイメージは、そのほとんどが無駄なものだ。それに気づけば思考やイメージは減っていくだろう」

 

●真理への熱い専心とは、真理を生きることを瞬間瞬間で選ぶことです。

コメント「今に生きることが、真理を生きることだ。それに反して、今から逸れ、考えや物思いに耽ることは、真理への冒瀆ということになる」

 

●「あなたとあなたの体験のすき間をほんのちょっとでも埋めなさい」と師に言われていた。

コメント「すき間とは判断、思考のことだ。思考を交えずに100%体験しなさい、ということか? これも平たく言えば『今を生きることに専心すること』のように思う。

 

●人生にもたれかかる、瞬間にもたれかかる、今あるすべてにもたれかかる。

●無防備かつ純粋無垢なるものに向かって下さい。

●少し危ういとことにいて、つねにちょっとだけ無防備でいてください。

コメント「抜き書きなので意味がわかりにくいかもしれませんが、思考に逸れずに、今起こっていることを100%体験することです。そのためには、事前に構えず、計画を立てず、無防備でいることです。

普通私たちはそうではありません。すぐに計算高く思考が介入してくるし、構えているし、計画的に行動します。無防備であることは稀なのではないでしょうか。しかし、それが真理を招き入れるコツのようです」

 

●感受性が研ぎ澄まされているとき、私たちは環境が目覚めているかどうかを感じ取ることができます。

●リラックスして調和に自らをゆだねることで、私たちはまわりの環境のあるがままの美しさに対して深く目覚めることができます。それが「中庸」です。中間という意味ではなく、すべてが内包された状態。

●聖書には「目覚めたものの近くにいなさい」という記述がある。人間だけでなく、木や街角もその対象になる。それらに向かってあなた自身を開いてください。

コメント「私には霊的なものを感じ取る能力はないに等しい。でも、アジャシャンティがそう言うのなら、今後気をつけて感じるようにしてみようと思う。どうやら真理は微妙なものらしい」

 

●ほとんどの人は物理的な死(肉体の死)を怖がっているのではない。『私という意識がなくなること』を怖がっている。

コメント「私も一度この問題を考えたことがある。『死が怖い』という思いを分析したみたら、『死後自分という個人がどうなるか分からない』ことが一番怖いのだと思った。しかし、生きている今でさえ、個人というものはどうやら幻想であるらしい、とわかってきたら、恐怖は和らいだ。

私たちを生かしている真理(本来の面目=真我)は『生まれもしなかったし、ゆえに死にはしない何か』だ。確かめたわけではないので、100%そうだとは言い切れないが、そうだと信じている。

それで、エゴが大人しくなるかと思うと、そうではなくて、死ぬ前の闘病を怖れていたりする。もちろん、これは妄想であり、無駄な思考である。どう死を迎えるかなんて、わからないのだから」

 

●私(アジャシャンティ)は本を、マインドからさまざまなものを洗い流すために利用しました。

コメント「スピリチャルの世界では、読書をあまり薦めない傾向がある、と本書の巻末インタビューで著者は言っています。この点は日本禅でも同じ事情にあります。言葉を詰め込むと悟りから遠ざかる、という考えがあるからです。

しかし著者は、本を読むべきだと言います。私も同意見です。結局は『どう読むか』が問題なのです。知識を増やすだけのために読書するなら、それはエゴの営みにしかなりません。真理を知りたい、という動機のもとに誠実に良書と向かい合うなら、それはいいことに決まっています。

一度『何のために私は本を読むのか』と自分自身に真剣に問いかけてみるとよいでしょう。

 

では、4回にわたってご紹介した感想文、今回でお開きにしたいと思います。お付き合い頂いた方々に、厚く御礼申し上げます。

では、また!

 

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