瞑想知恵袋 その7【私の修行遍歴・前編】

2024/02/12
 

 

こんにちは!

昨日思ったのですが、「瞑想知恵袋」ってネーミングが、ちょっと自分に合わないような気がしてきました。もう、偉そうに瞑想修行について語るつもりはないし、語る内容も大してありません。しかしながら、家人がそれこそ知恵を絞って考えてくれたメインタイトルを、簡単にポイしてしまうこともできません。

ガッカリされる読者もいらっしゃるかもしれませんが、タイトルはこのままにしておいて、もっと気楽に修行にについて書いてみようと思います。

できれば、お気軽に読み飛ばしていただければ幸いです。もちろん、気楽にとはいえ、いい加減なことは書かないつもりです。どうか、お付き合いください。

 

私の修行歴は、禅が出発点ですが、現在は禅の修行者というにはちょっと「らしくない」人物になっています。こんな私も最初は、指導者、先輩方の「言う通り」に修行しておりました。公案を与えられ問答もしました。でも、一生懸命に励んで(ほぼ毎日坐禅していた)数年経ったとき、心底疲れてしまって、公案問答は一休みして、坐禅だけに通うようになりました。

自分が何をやっているのか、さっぱりわからなくなってしまったのです。で、坐禅をしているのに、別の宗派に浮気するのも気が引けたのですが、当時売れっ子だった(今でもそうですが)、スマナサーラ長老の本を読んでみました。まずベストセラーになっていた

「怒らないこと 役に立つ仏教法話①」(アルボムッレ・スマナサーラ サンガ新書)

を読みました。

 

私たちに馴染み深い「怒り」というものについて、こんなに懇切丁寧に解説された本は始めてでした。そして、その解消法も明確に書いてある。すっかりとりこになって、このシリーズを次々と読みました。「おいおい、仏教ってこんなに面白いんかい!」というのが正直な感想でした。

それに比べて禅の文献は、難解なことをさらに難解に語って、結局のところ何が言いたいのかさっぱりわからない、というようなものが多く、閉口していたので、この差は大きかったのです。スマナサーラ長老の本は、「一度読めばすぐにわかる」という所がまず良かった。

禅の文献は何回読んでも難解でした。それに難解であることをことさら誇っているような気分が、表現の端々にあるように感じられました。他人にわかりやすく説明しようという気がそもそもない、というな物言いが、私の肌に合いませんでした。

そういうわけで、外見は禅の修行者、内心はテーラワーダ仏教ということで、後ろめたさを感じながら禅寺に通っていました。しかしその結果、再開した公案問答もスムーズにいくようになり、仏教の理解も深まったので、私にとっては明らかに正しいやり方だったと思います。

 

テーラワーダ仏教には、日本でご活躍のスマナサーラ長老の他に、タイの名僧アチャン・チャーという方がいます。この方の本も大変面白いのでお薦めします。

「手放す生き方」(アチャン・チャー著 サンガ書房)

が一般の人向けで、読みやすいでしょう。

日本人でタイで出家されたプラユキ・ナラテボーという方もいらっしゃいます。この方は在家者の「悩み相談」も得意で、よく悩みを聞いたあとで、仏教的な解決策を話すということをなさっています。手動瞑想というユニークな瞑想法も紹介されています。

「悟らなくたって、いいじゃないか」(幻冬舎新書 魚川祐司共著)

が手頃でしょうか。

また、テーラワーダ仏教続きでご紹介すると、山下良道という方もいらっしゃいます。最初は曹洞宗の禅僧として出家された方ですが、後にテーラワーダ仏教で出家し直され、現在は鎌倉を中心に各地で坐禅指導なさっています。著書に、

「青空としてのわたし」(山下良道著 幻冬舎)

があります。この方は曹洞宗の禅僧、藤田一照老師と滅茶苦茶に厳しいお寺、安泰寺で一緒に修行された方で、藤田老師とは兄弟弟子の関係にあります。藤田老師も大好きな方で、著書もたくさん読みましたが、また後ほど、別に取り上げてみようと思います。

 

これだけ並べると、「お前は隠れテーラワーダ仏教徒なのだな」と思われそうですが、そうでもありません。先に結論を言ってしまうと、好き勝手に修行しています。テーラワーダ仏教にはまったあと、今度はヒンズー教に行きました。

それは、youtubeの動画を見ていているうちに、まず、ムージを見つけ、さらにパパジ(プンジャジ)を見つけました。「あれ、これって仏教で言っていることに似てるなあ」と思って興味をもち、それぞれの著書を読んでみました。

「絶対なるものの息 ムージとの対話」(ナチュラルスピリット)

「覚醒の炎 プンジャジの教え」(ナチュラルスピリット)

 

ここまでくると、20世紀最大の覚者、ラマナ・マハルシにたどり着くのは時間の問題でした。ちなみに、プンジャジはマハルシの直弟子、ムージはプンジャジの下で覚醒体験をした人です。

ラマナ・マハルシの著書は、やはりナチュラルスピリットから多数出ています。生命の真実があからさまに語られているので、「え、そういうことなの?」と、にわかには信じられませんでした。しかし、同時に「このような人がいい加減なことを言うはずがない」という確信も同時にありました。

 

「ラマナ・マハルシとの対話」①~③(ナチュラルスピリット)

他を貪るように読みました。マハルシは教えることに積極的ではありませんでしたが、修行者から請われるままにやがて教えるようになりました。アシュラムができると、噂は広まりさらに人が集まるようになったといいます。

この方は16歳のときに家出して、アルナーチャラという山に行き、一人で修行した人なんです。何年かして、お母さんが探し当てたのですが、ガンとして帰らなかった。覚者ですから、家出前の「母の子」はすでにマハルシの中では消えていたのでしょう。逆にお母さんがそこに住むようになり、臨終にもマハルシは立ち会ったのです。

この方は大変魅力的な方で、一時期集中的に読んでいました。弟子のプンジャジが夜になっても師匠と離れたがらず、マハルシの休む建物の戸口の側で寝た、という逸話もわかるような気がします。お釈迦さまはかくあられたのでは、と重ね合わせてイメージを重ねたこともあります。

そして私にとって一番肝心なことは、「この人が噓を言うはずがない」という確信が起こったことです。最初は、言われていることに100%の納得はしていませんでした。「ほんとかよ」という半信半疑がありました。それがそのうち「そうだったらいいなあ!」という願いに似たものに変貌し、そのうちその考え方に残りの人生を賭けるつもりになっていました。

100%の確信はないし、覚醒体験したわけでもない。でも、マハルシの考えは文句なしに素晴らしかったので、「たとえ騙されても悔いはない」と、博打で有り金すべてをそこに賭けるように、マハルシを信じたのです。このような状態を帰依というのかもしれませんね。

 

同時期の大覚者にニサルガダッタ・マハラジがいます。この方はyoutubedeで、帰依者を前に語っている映像を見ることができます。大きな身振り、大きな声で、確信的に語られる姿は強烈です。この人にもかなり入れ込みました。貧しい育ちで、日本でいうと小学校の3年生くらいの学力しかなかったそうです。英語はもちろん話せません。

小さな煙草屋を営み、結婚もし、子どもいました。ヒンズー教の篤信家(とくしんか)で、祈りは毎日欠かさなかったようですが、平凡な中年男にすぎませんでした。ところがある日、友人に誘われてヒンズー教の覚者のところに行きました。そしてそのグルに会ったとたんに、「あなたは、あなたが考えているような存在ではない」と言われ、それを素直に信じたのです。その後、各地を巡礼し覚醒体験を得ます。そのまま巡礼を続けようとしましたが、思い直し自宅に戻り、そこで教えはじめました。

この方も、マハルシとはまた違った魅力があり、入れ込みました。

 

「アイ・アム・ザット 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話」(ナチュラルスピリット)

が主著と言えるでしょう。まだまだ、私の修行はそこから発展(?)していくのですが、少し長くなりましたので、ここで一旦終えて、さらに後編でその遍歴の続きをお話することにします。「なんと、節操のない!」と呆れられるかもしれませんが、興味の赴くままに読んでいくと、こうなってしまったのです(笑)。

 

では、後半をお楽しみに。また、お会いしましょう。

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2024 All Rights Reserved.