【臨済録】やさしい現代語訳・解説 上堂9
こんにちは!
今回は、孤峰頂上と十字街頭、どちらが偉い?
①読み下し文
上堂(じょうどう)、云(いわ)く、一人は孤峰頂上(こほうちょうじょう)に在(あ)って、出身(しゅっしん)の路(みち)無く、一人は十字街頭(じゅうじがいとう)に在って、亦(ま)た向背(こうはい)無し。
那箇(いずれ)か前に在り、那箇か後に在る。
維摩詰(ゆいまきつ)と作(な)さざれ、傅大士(ふだいし)と作さざれ。
珍重(ちんちょう)。
②私訳
上堂の際、臨済禅師は言われた。
「一人は孤絶の頂上にあって、それ以上登る道はない。もう一人は街なかにあって、後戻りできない。いずれが前にいて、いずれが後ろにいるか。維摩詰だ、傅大士などと言うでないぞ。ご苦労であった」
現場検証及び解説
珍しく臨済先生からの問いです。しかしながら、素直に答えていいのか、それとも斜に構えて答えるべきか、あるいは答えずにいるべきか、迷うところです。
また、個人名が出てきているのも、ややこしい。あからさまに個人名を出し、相手にイメージを与えておきながら、「言うでないぞ」と否定してかかるのですから、聞いている側も答えに窮します。それが、臨済先生の狙いかもしれませんが。
まず、言葉の説明からしていきましょう。
孤峰頂上にいるということは、禅の境地の最高峰にいるということでしょう。釈尊存命中の人物とされ、大富豪でありながら、並み居る釈尊の弟子たちを論破したという、維摩詰(ゆいまきつ)になぞらえられます。在家菩薩のスーパースターのような人です。
もう一人は十字街頭に在って後がない人です。この人は傅大士(ふだいし)という人になぞらえられるらしい。南北朝時代の在俗の仏教者で、達磨大師と出会って教えを受けたという話もあり、昼間は農業や漁業を営み、夜は仏教修行に打ち込んだという人です。
どちらもすごい人です。どちらの方が優れているなどと、安易に言えはしません。それを言わそうとするのは、ひょっとして臨済先生の罠(わな)でしょうか。そのようにも思えます。
また、臨済先生の質問は「孤峰頂上と十字街頭と、どちらが偉いか」の二択(にたく)の問いなのか、それとも孤峰頂上と十字街頭の解釈の問題なのか、ハッキリしません。禅はこういうところが、実にいいかげんです。
答えも待たずに、臨済先生は演壇を下りてしまいました。
私見ですが、上記の二つはどちらも素晴らしい境地です。どちらが良いなどと野暮なことを考えるよりも、それぞれの境地に少しだけ思いをはせたら、後は余計なことを考えずに、各自修行に励むべきです。
思考してしまったら、禅は負けなのです。臨済先生の意地の悪い質問に、足元をすくわれないよう、気をつけましょう。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。