【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆42

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、世界が2つに分かれていると理解していたら、仏教を誤解します。ご注意ください。

 

①読み下し文

道流(どうる)、你(なんじ)、仏と作(な)らんと欲得(ほっ)すれば、万物に随(したが)うこと莫(なか)れ。

心生ずれば種種の法生じ、心滅すれば種種の法滅す。一心生ぜざれば万法咎(とが)無し。世と出世と、無仏無法、亦(ま)た現前せず、亦た曾(か)つて失せず。

設(たと)い有るも、皆な是れ名言章句(みょうごんしょうく)、小児を接引する施設の薬病(やくへい)、表顕(ひょうけん)の名句(みょうく)なり。且(か)つ名句は自ら名句ならず。還(かえ)って是れ你目前昭昭霊霊(しょうしょうれいれい)として、鑑覚聞知照燭(かんかくもんちしょうそく)する底(てい)、一切の名句を安(つ)く。

大徳、五無間(ごむげん)の業を造(つく)って、方(はじ)めて解脱を得(う)。

 

②私訳

諸君、仏になろうと思うのなら、現象に巻き込まれてはならない。思念が生まれれば、様々な現象が生じてしまう。思念が滅すれば、その現象も消えていく。思念が生じなければ、世界が分離してしまうこともないのだ。

世俗の人間であろうと出家者であろうと、仏という実体はないし、現象という実体もない。もともと実体の無いものだから、現れるということもないし、失われるということもないのだ。

有るとしても、有るのは言葉や文章にすぎない。それらも所詮(しょせん)は、子どもだましの薬、看板の宣伝文句なのだ。

言葉はそれ自体、自立したものではない。今ここでハッキリかつ生き生きと、モノを照らし認識している者(真我=仏性=本来の面目)こそが、一切の名を付けているのだ。

修行者は、無間地獄に落ちる五種の重罪を犯した後、はじめて解脱することができるのだ。

 

現場検証及び解説

 

諸君、仏になろうと思うのなら、現象に巻き込まれてはならない。

揚げ足取りになりますが、「仏は成るものではない。既に仏であるからだ」という前言と矛盾します。

それはそれとして、先に進みましょう(笑)。

「万物に随(したが)うこと莫(なか)れ」私訳「現象に巻き込まれてはならない」は、何度も臨済先生が言われている「無事(ぶじ)であれ」に通ずる教えだと思います。

人間が見たり聞いたりすることは、すべて同じようになされていると、普通私たちは考えますが、そうではありません。このあたりのことは、テーラワーダ仏教が詳しいかと思います。最近はこちら方面の勉強がおろそかで、あいまいな記憶のまま申し上げますが、お許しください。

たとえば、スーパーマーケットで林檎を見たとしましょう。

1⃣ ふと見て、スルーして、他のコーナーに向かう。

この見方は「ただ軽く視線を置くだけの見方」です。テーラワーダ仏教では「触」というのではないかな、どうだろう? ちょっと自信がありません。

それに対して、また別の見方があります。

2⃣ 「そうだ、林檎が食べたかったんだ。どの林檎が美味しいだろう。これかな? でも、こっちはお値段が高めだなあ」と思う。

この見方は明らかに対象をつかみ、吟味し始めています。テーラワーダ仏教では、これを「受」というのではなかったかな?

そして、吟味した結果、別のスーパーマーケットに行ってみるという行動にすら発展するかもしれません。

上記2⃣の場合の特徴は「眼耳鼻舌身意」で言うと、「眼」の「見る」だけでなく、引き続き「意」の「思念」が発生していることです。意は放置しておくと、ドンドン展開していく傾向があります。「受」した情報をああでもないこうでもないとこねくり回して、こうだろうかああだろうかと想像します。想像は物語に発展します。つまり事実から離れ、お話を作っていく傾向があるのです。

もうひとつは、論理化です。この場合はどうか、別の場合はどうか、というふうにシュミレーションしていきます。ここで買うのが得か、他で買ったほうがいいか、などなど。

想像にしろ論理にしろ、小さな思念がドンドン大きくなり複雑化していきます。このように思念は、見張っていないと、暴走してしまうのです。

この思念の暴走を止める方法はひとつ、思念の観察です。観察することによって、思念が自然に消え、自ずと今ここという本来の場所に戻っていくことができます。瞑想修行は思念を観察し、即今を守ることにつきます。

 

思念が滅すれば、その現象も消えていく。思念が生じなければ、世界が分離してしまうこともないのだ。

普通の人は「自分と世界は分離してある」あるいは「自分と世界は別物である」と信じています。が、それは間違いです。正しく言い直しましょう。

「認識の中に、自分と世界がある。思考がないときは自分と世界は分離していない。ひと続きの景色があるだけ」です。上記の臨済先生の言葉はそのことを言っています。

世界に切れ目のようなものはどこにもありません。「碧巌録」に出てくる無縫塔(むほうとう)というのは、このことを言っています。

また、「無門関」第37則、「庭前柏樹」も切れ目のない世界の表現です。

思考が絡んでくると、「この世界で自分は特別な存在」になり、自分と世界は別物になり、世界や他人に対する親密感が薄れます。ストレス過剰で思考が活発化していると、世界や他人はよそよそしく感じられ、孤立感が増します。それは、思考がこんがらがっているせいです。何も考えないようにしていると、思考は収まっていき、孤立感は和らぐはずです。

変なことを言う奴だと思われるかもしれませんが、もう少しこれに関連した重要な真実を言わせてください。

「世界に物質はありません」

普通の人は、「私たちの認識の外に物質がある」と思っています。間違いです。あるかもしれませんが、それは今現在でも発見されていません。最新の量子力学の物理学者が降参してこう言っています。「少なくとも単独の物質というものはない。言うならばコレは認識と物質の合わさったものだ」

自分と世界という、いわゆる主観と客観があると、世界は2つに分かれていると考えて、そこから仏教を理解しようとすると、絶対に仏教は理解できません。

「世界はひとつである」「認識しているから世界はある。認識していないとき世界はない」と理解しないと、仏教を誤解してしまいます。

第一ボタンを付け間違えたら、全部ずれてしまいます。同じように上記のポイントを理解しないまま、仏教を解説すると、とんでもなくおかしな話になってしまいます。誤解に基づいた発言や文章をたまに見かけるものですから、不肖ながら私が、仏教を語ってみようかなあ、という動機が生まれ、このブログが始まりました。

もちろん、未熟な修行者ゆえ、間違いもないとは限りません。諸先輩方のご批判覚悟の私訳です。誤りや不明な点がありましたら、ご指摘下されば助かります。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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