【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆38
こんにちは!
今回は、「自分て何?」から仏教は始まる。
①読み下し文
問う、如何なるか是れ真仏真法真道、乞(こ)う、開示を垂(た)れたまえ。
師云く、仏というは心清浄是れなり。法というは心光明是れなり。道というは処処無礙浄光(しょしょむげじょうこう)是れなり。
三即一、皆な是れ空名にして実有無し。真正の作道人の如きは、念念心間断(ねんねんしんかんだん)せず。
達磨大師の西土より来たってより、祗(た)だ是れ箇(こ)の人惑(にんわく)を受けざる底(てい)の人を覓(もと)む。後に二祖の一言に便(すなわ)ち了(りょう)じて、始めて従前(じゅうぜん)虚(むな)しく功夫(くふう)を用いしことを知るに遇(あ)う。
山僧が今日の見処は、祖仏と別ならず。若し第一句の中に得れば、祖仏の与(ため)に師と為(な)る。若し第二句の中に得れば、人天の与に師と為る。若し第三句の中に得れば、自救不了(じぐふじょう)。
②私訳
問い。「真の仏、真の法、真の道とはどんなものですか。お示しください」。
臨済禅師は次のように言われた。
仏とは心の清らかさのことことだ。法とは心の輝きのことだ。道とは即今即今を清らかさと輝きで生きることだ。
この三つはひとつなのだ。それらは仮の名にすぎず実体はない。
まともな修行者なら常時即今を行じていき、それを思念で途絶えさせることはない。
達磨大師がはるばるインドより来たのも、他人に惑わされぬ人を求めてのことだ。後に達磨大師に会った二祖は、その一言で自分のそれまでの修行が無駄だったことを知った。
ワシの今日の考えは、祖仏とまったく同じだ。
もしワシの一句目で悟ったら、祖仏の師となるであろう。もしワシの二句目で悟ったら、人々の師となるだろう。もし三句目以上なら自分を救うことさえままならない。
現場検証及び解説
「言葉では言えないもの」とはいえ、未悟はそれを知りたくて、師に言ってもらいたがります。これもそのような場面です。臨済先生も求めに応じて、言ってはみますが、すぐさま「それらは仮の名にすぎず実体はない」と「これは言葉に過ぎないのだぞ」と釘をさします。
まともな修行者なら常時即今を行じていき、それを思念で途絶えさせることはない。
仏教にいろいろな教えがあって、学ぶことは無数にあるように感じますが、要はこの一点のみです。「即今を保つ」こと。即今とは無時空間の垂直軸のことです。一般的な言い方をすれば「思念を起こさない」ことです。
思考停止は、チャレンジしてみれば、それはすこぶる難しいことだと気づきます。しかし、不可能なことではありません。
これはあくまでも私自身の感想に過ぎませんが、毎日30分の瞑想修行を1年間休まずに継続すれば、なんらかの発見はあるかと思います。ですから、コスパを気にする人には不向きな行為です。結果を気にせず焦らずに淡々と修行していくのが良いようです。かく言う私が、しばしば焦って結果をだそうとするタイプでしたので、指導者から注意を受けました。
それで、最近思ったのですが、他人に見えるような結果を出そうとするのはやめようと思いました。どうしても人は、「人から褒められたい」という欲求をもってしまいます。そうすると、1センチくらいは進歩して「お、○○さん、最近イキイキしてきましたね」なんて言われてみたいと、密かに(自覚的でないことも多い)欲望している、なんてことが起こります。
そこをキッパリ人からの評価を一切諦めて、自分だけにわかるミリ単位の進歩を目指すことに決めました。他人の評価は全く気にせず、小さなことに取り組み、達成していく・・・自分だけの「よっしゃ!」を目指しています。
「臨済録」で取り扱われているような、頓悟、つまり一気呵成の覚醒をした人は確かにいます。また、YouTubeなどで活躍されているスピリチュアル覚者の方の話を聞くと、本当にそういうことはあるらしい。しかし、誰にでも起こることではなさそうだし(しかも、かなりの試練のあとソレは訪れるらしい)、起こそうと努力することは無駄なことでもあるらしいのです。
だったら、漸悟(徐々に悟るやり方)でやるしかありません。また、自分なりのやり方でやっていくしかありません。私には力もなく、頭脳もなく、根性もなく、残り時間もそう多くはありません。しかし、絶対にあきらめないしつこさだけは、なぜか備わっているのです(笑)。他にやりたいことが、あまりないというのも今となっては好都合です。
達磨大師がはるばるインドより来たのも、他人に惑わされぬ人を求めてのことだ。
読み下し文の「人惑を受けざる底の人」というのが、キーワードです。私は「他人に惑わされぬ人」と訳しました。これは、一般的な「他人に騙されぬしっかり者」という意味ではありません。
逆を考えてみましょう。「人惑を受ける人」とはどういう人でしょうか。この場合、「世間一般の常識を素直に受け入れる人」のことです。そうすると、「人惑を受けざる底の人」のイメージが浮かび上がってきます。「世間一般の常識を疑い、自分で直(じか)にわかったことだけを受け入れる人」です。
考えてもみてください。仏教の基本的な教えは「無我」です。これは一般の常識に反することです。世間は「有我」を土台に設計されています。「個人がある」という前提です。そして、その個人が努力し、成功し、称賛をあび、惜しまれて死んでいきます。あるいは、その個人が努力しようとも努力できず、社会に上手く適合できず、失敗し、冷たい目で見られ、生きる自信を失い、年老いて死んでいきます。
これって、仏教的にはまるで間違った前提なのです。「個人はいない」これが仏教の教えの根本であり、真実です。ところが、世間は個人がいると思っていますから、生まれてきた子どもに、あたかも自明のことのように、「個人としてありなさい」としつけします。しかし、その根拠の淵源を慎重に遡(さかのぼ)ってみれば、「親から、先生からそう言われたから」ということでしかありません。自分で確かめたわけではないのです。
ですから、仏教を学ぼうとするなら、まず世間一般の常識をカッコに入れ、一旦脇において、「自分ってなんだろう。何をもって自分としているのだろう」という問題に真剣に取り組む必要があります。心静かにして瞑想修行をする理由がここにあります。
また、先に答えを言ってしまうと、個人とは思考です。仏教で言う認識の6つの窓に「眼耳鼻舌身意」があります。このなかで、思考を意味する「意」を退けてしまうと、個人はいなくなります。思考がない状態というのは、一日のうちに、結構あるはずです。しかし、こう言ってしまうと、「今思考はあるだろうか」とかえって思考を探るという思考を発生させてしまうので、うまくいきませんが(笑)。
事後的に「あ、今(正確にいえば先程ですが)、思考がなかったかも」というのを経験してみてください。そして、それが自然な状態で、仏教が目指す境地(あんまり、この言葉好きじゃないけど)なのです。
「個人であること」という世間一般の常識を無視して生きていくことは不可能です。人里離れたところで瞑想修行に励む理由がここにあります。しかし、普通の修行者である私たちには無理な話です。どうしても、そこに工夫が必要ですし、臨済先生が生きた時代とはまた違った修行法を、私たちの力で新しく編み出していく必要があります。
これは言ってみれば、大いなる試みです。この試みが失敗すれば、人類に未来はありません。非力な私たちですが、やるだけはやってみましょう。私と同じような思いを抱いている人に向かって、このブログは書かれています。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。