【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆27

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「師家と学僧の問答」実況中継!

 

①読み下し文

道流(どうる)、如(も)し諸方より学人の来たる有らば、主客相見(しょうけん)し了(おわ)って、便(すなわ)ち一句子(いっくす)の語有って、前頭(ぜんとう)の善知識を弁ず。学人に箇(こ)の機権(きけん)の語路(ごろ)を拈出(ねんしゅつ)して、善知識の口角頭に向って攛過(ざんか)して、你(なんじ)識(し)るや識らずやと看(み)せらる。

你若(も)し是れ境(きょう)なることを識得すれば、把得(はとく)して便ち坑子裏(こうすり)に抛向(ほうこう)す。学人便即(すなわ)ち尋常なり。然る後に便ち善知識の語を索(もと)む。依然(いぜん)として之を奪う。学人云く、上智なる哉、是れ大善知識と。即ち云く、你大いに好悪(こうお)を識らずと。

善知識の如きは、箇(こ)の境塊子(きょうかいす)を把出(はしゅつ)して、学人の面前に向(お)いて弄(ろう)す。前人弁得(べんとく)して、下下(げげ)に主と作(な)って境惑(きょうわく)を受けず。

善知識便即(すなわ)ち半身を現ず。学人便ち喝す。善知識また一切差別の語路の中に入って擺撲(はいぼく)す。学人云く、好悪の識らざる老禿奴(ろうとくぬ)と。善知識歎(たん)じて曰く、真正の道流と。

諸方の善知識の如きは、邪正を弁ぜず。学人来たって、菩提涅槃(ぼだいねはん)、三身の境智を問えば、瞎老師(かつろうし)は便ち他(かれ)の与(ため)に解説(げせつ)す。他(か)の学人に罵著(めじゃく)せられて、便ち棒を把(と)って他(かれ)を打つ、言(げん)に礼度(れいど)無し、と。自ら是れ你善知識眼(まなこ)無し、他を嗔(いか)ることを得ず。

一般の好悪を識らざる禿奴有って、即ち東を指し西を画(が)し、晴を好み雨を好み、灯籠露柱(とうろうろちゅう)を好む。你看(み)よ、眉毛幾茎(まゆいくけい)か有る。這箇(しゃこ)機縁を具す。

学人会せずして、便即(すなわ)ち心狂(しんきょう)す。是の如き流(たぐい)は、総(す)べて是れ野狐の精魅魍魎(せいみもうりょう)。他(か)の好学人に嗌嗌(あくあく)と微笑せられて、瞎老禿奴(かつろうとくぬ)、他の天下の人を惑乱(わくらん)すと言わる。

 

②私訳

諸君、各地から学僧がやって来ると、まず道場主と挨拶をかわし、そこで一句放って道場主の力量を測ろうとする。

学僧は機略を凝らした言葉を、道場主の口元に投げつけて、さあ、わかるかと迫るのだ。

そこで道場主が、これをただの探りだと見破ることができたなら、その言葉を取ってポイと穴に捨ててしまう。

すると学僧は大人しくなって、今度は教えのお言葉を頂戴したいと言い出す。その言葉をもまた奪ってしまうと、「なんと素晴らしい智慧、さすが高徳の師家」と言う。そこで道場主は言う。「お前はもののわからん奴だ」と。

本物の師家(道場主)ならば、目の前の何かを取り上げて、学僧の前でちらつかせてみせる。学僧は心得ていて、ひとつひとつ即今を守りつつ、その出来事に惑わされない。

道場主は、今度は半分だけ個我を現してみせる。学僧は喝す。

道場主、今度は一切を差別世界(個我の世界)にぶちまけてみせる。学僧は言う。「もののわからぬ老いぼれハゲ坊主め!」と。すると、道場主は感嘆して言うのだ。「本物の修行僧だ」と。

世間一般の道場主(偽物の師家)は、指導上の善し悪しがわかっていない。学僧が来て「菩提涅槃、三身の境智」を問えば、道理のわからぬ師家は解説しだす。学僧に罵(ののし)られると、「礼を知らぬ奴め」と棒で打つ。これは、この師家自身が、道理がわかっていないのだ。学僧をしかる資格はない。

世間一般の、もののわからぬ坊主どもは、東を向いたり西を向いたり、晴れだ雨だと喜んで、灯籠や露柱を褒(ほ)めまわる。こんな坊主に何本眉毛が残っているか見てみるがいい。これにはちゃんと訳があるのだ。

バカな学僧はそこがわからずに、こんな坊主に心酔してしまう。このような坊主はみんな野狐の化け物だ。ちゃんとした学僧からは「道理を知らぬ老いぼれハゲ坊主め、天下の学僧を迷わしている」と忍び笑いされているだろうさ。

 

現場検証及び解説

 

この段では、師家(道場主)と学僧の問答について語っています。

前半の文章は、良い師家の在り方を提示しています。師家(道場主)と三人称で語っていますが、臨済先生自身のことだと思われます。「ワシはこのように指導するのだ」という話です。

後半の文章は、悪い師家の例を挙げています。

各地を旅しながら、禅の修行をする学僧のことを雲水と呼びます。雲水は禅の道場にやって来て、道場主と面会します。まず挨拶を交わします。そこまでは、現代と変わりません。しかし、そのあとの応対が少し異なります。普通に話し合うのではなく、闘論、あるいは境地の探り合いのような様相を呈してくるのです。

 

学僧は機略を凝らした言葉を、道場主の口元に投げつけて、さあ、わかるかと迫るのだ。

学僧(雲水)は道場主を値踏みします。言葉を投げかけて、主の反応を見るのです。反応が悪ければ、教えを請わずにさっさと別の道場に向かおうという腹でしょう。しかし、値踏みするのは学僧だけではありません。道場主も学僧を値踏みしています。

学僧が実存を賭けた疑問をぶつけてきたのなら、臨済先生もそれに応えたでしょう。そうではなくて、値踏みするためのハッタリであったなら、真面目に取り合わずに、その言葉を無視する、ポイと穴に捨ててしまいます。そうすると学僧は従順になり、逆に教えを請いたいと言い出します。

続いて師家が、その言葉をも奪ってしまう、というのは、「教えてください!」という学僧の個我を奪ってしまい、あわよくば悟らせてしまおうという魂胆です。しかし、そう簡単にはいかずに、学僧はなにがなにやらわからぬままに、「この道場主は凄い人だ」と見当違いの感心の仕方をしてしまいます。

 

本物の師家(道場主)ならば、目の前の何かを取り上げて、学僧の前でちらつかせてみせる。学僧は心得ていて、ひとつひとつ即今を守りつつ、その出来事に惑わされない。

先に示した例は、指導がうまくいかなかった場合です。この文章の例は、指導がうまくいった場合です。

師家が、問答の現場にある道具を学僧に示して、それに引っかからせようとします。道具は何でもいいのです。よく登場するのが払子(ほっす)ですが、筆でも紙でも硯でも何でもいいわけです。要はそれらを、意味ありげにちらつかせて見せ、学僧を惑わせ、それに食いつかせ、即今から出来事の方へ、引きずり出そうという師家の魂胆です。

「その手には乗るか!」と見破り、即今を守ることができたなら、学僧は合格です。逆に「え、なになに!」と師家の策略に乗ってしまい、反応していってしまうと不合格です。

 

道場主は、今度は半分だけ個我を現してみせる。学僧は喝す。道場主、今度は一切を差別世界(個我の世界)にぶちまけてみせる。

師家(道場主)、つまり臨済先生にも個我はあります。しかし、未悟の学僧のように常に個我が居座っていて、それに振り回されてはいません。臨済先生は個我がない状態が普通で、必要とあらば個我を半分現してみたり、全部さらけ出してみたり、できたようです。そのようにして、学僧を試したのです。

この文章の学僧は優秀で、臨済先生の引っ掛けには乗りません。「本物の修行僧」と太鼓判を押してもらいます。禅の修行は、ある意味では、そんなに難しいものではありません。即今さえ守っていればいいのですから。しかし、それを実際にやってみると、そう簡単ではないことがわかります。

最初に、常に即今から逸れたがる奴がいることに気づきます。次に、そいつは欲望に突き動かされて、そうしていることに気づきます。この欲望をできるだけ捨てていき、身軽になることが修行の進捗(しんちょく)を左右します。

簡単に書いてしまいましたが、この過程は時間がかかりますし、強制的にそれを行うことができない、自然にそうなるようにするしかない・・・。

わかりにくい言い方ですね(笑)。

 

私たちが、修行においてできる仕事は、二次的なものであるということです。私たちは、個我から修行を始めます。しばらく真面目に修行していくと、その目的が「個我の消滅」であることに気づき、啞然とします。個我が個我の消滅を企てるのです。

正しい修行法で行わないと、効果は顕れてきません。

正しい修行法とは「心の観察」です。もう少し詳しく言うと「心をコントロールしようとせず、ニュートラルに、興味をもって、暖かく見守り続ける」という技法です。それを継続すると、個我(思考と欲望)は大人しくなっていきます。この仕組みは、個人差はあるでしょうが、皆同じだと思います。

また、注意点として、「効果を期待しないで行って」ください。効果を期待して行うと、逆効果になってしまいます。なぜなら、期待は一種の「思考と欲望」であり、期待することが個我を活性化してしまうからです。私たちは何かを行うとき、どうしても期待してしまいますから、この注意が難しいことはわかります。

しかし、これに気がつかないで努力してしまうと、その努力が個我を強くする方に向かわせてしまう可能性があります。そうすると、修行して素直にならなければいけないところが、かえって傲慢になってしまい、困ったことになってしまいます。

修行の目的、修行の方法を、常に自分で点検し見直していかないと、気づかぬうちにずれていってしまう可能性があります。ここはどんなに注意しても、注意し過ぎではないと、私自身自戒しつつ、修行しているつもりです。皆さんもどうかお気を付けください。

 

後半の文章は、世間一般の坊主に対する臨済先生の悪口です。「禅と悪口」という論文が書けそうなくらい、禅は悪口が好きです。「それよりも、正しい考え、正しい方法をもっと詳しく述べてくださいよ」と言いたいところですが、仕方ありません。

臨済先生は言いたいことは言いたいのですから。躊躇されることはありません。しかし、言った先からすぐに忘れてしまい、何の後腐れもなかったでしょうに、こうやって後世に文章で残されてしまうと、どうにも困ったことになってしまいます。

すぐに消えるはずだった言葉を残されてしまい、臨済先生は困っているはずです。私のおしゃべりも、きっと苦々しく思っていらっしゃるでしょう(笑)。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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