【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆18
こんにちは!
今回は、臨済禅師、気づきを語る。
①読み下し文
道流、你(なんじ)、若し如法(にょほう)ならんと欲得(ほっ)すれば、直に須(すべか)らく是れ大丈夫児にして始めて得(よ)し。
若し萎萎随随地(いいずいずいじ)ならば、即ち得からず。夫(そ)れ甓嗄(ぜいさ)の器の如きは、醍醐(だいご)を貯(たくわ)うるに堪(た)えず。大器の者の如きは、直に人惑(にんわく)を受けざらんことを要(ほっ)す。随処(ずいしょ)に主と作(な)れば、立処皆(りっしょみ)な真なり。
但有(あらゆ)る来者は、皆な受くることを得(え)ざれ。你が一念の疑は、即ち魔の心に入るなり。菩薩の疑う時の如きは、生死の魔便(たよ)りを得。但(た)だ能(よ)く念を息(や)めよ、更に外に求むること莫(なか)れ。
物来たらば即ち照らせ。你は但だ現今用うる底(てい)を信ぜよ、一箇(いっこ)の事も也(ま)た無し。你が一念心は、三界を生じて、縁に随い境(きょう)を被(こうむ)って、分れて六塵(ろくじん)と為(な)る。
你如今(なんじいま)応用する処、什麼(なに)をか欠少(かんしょう)す。一刹那(いっせつな)の間に、便(すなわ)ち浄に入り穢(え)に入り、弥勒楼閣(みろくろうかく)に入り、三眼国土(さんげんこくど)に入り、処処に遊履(ゆうり)して、唯(た)だ空名を見るのみ。
②私訳
諸君、もし法に叶(かな)う者であろうとするなら、他者(現象世界)に惑わされない人間になることだ。頼りなく他者に盲従するような態度なら、まず見込みはない。
割れた器に法の果汁は溜まりはしない。
法を受ける大器であろうとするなら、他者に惑わされないことだ。あらゆる場面で主(即今・真我)となれば、実に皆これ真となる。
外からくる者(現象世界)に巻き込まれてはならぬ。恐れは迷いの道への入口だ。菩薩(修行を積んだ人)でさえ恐れれば、生死に付け込まれるきっかけになる。
ただ、思念が自然に止まるように工夫せよ。外に向かって求めていくでない。何かが起こったら、すぐにそれに気づけ。只今即今のはたらきを信じよ。何事も起こってはいないのだ。
お前の心は三界(欲界、色界、無色界)に生じ、自他の二境に分かれ、六根(眼耳鼻舌身意)を通じて認識が起こる。只今即今、そのはたらきに何か欠けているところがあろうか。
瞬間瞬間、浄土に入り穢土に入り、弥勒楼閣に入り、三眼国土に入り、あちこち遊行するが、見るのはただ空の名ばかりだ。
現場検証及び解説
この段も、言葉を意味を特定していかないと、読み間違えてしまうような、微妙なことが語られています。慎重に読み進めていく必要があります。また、瞑想体験をある程度して、心の景色の観察データが一定量ないと、なんのこっちゃいな、ということになると思います。
心の景色の観察ということを、もう少し具体的に言いますと、空の天気をじっと眺めているようなものです。厚く雲に覆われた日もあれば、雲が少なく比較的太陽の光が射す日もあります。雨や台風が続く日もある。それらすべてに眼をそらすことなく、気づき続けることが要請されます。
それらのデータをもとに、臨済先生のおっしゃることと引き比べてみると、「ああ、あのことか」と腑に落ちるということです。心の観察が天気の観察と違うのは、天気なら天気図を示して「ほれ、この通り」と見せられますが、心はそうはいかないというところです。
心の景色は、各自が瞑想体験をして心の景色を観察し、自分で確かめなければならない、という面倒くささがあります。面倒くさいものだから、人は文字に頼ってその間をはしょろうとします。42.195キロ走るのはきついから、間をタクシーに乗って楽してしまおう、という感じです。
マラソンなら「ずるした」感覚はあるから、まだいいのかもしれません。文字に頼って先に行ったつもりになっている人は、罪の意識がない分厄介です。不立文字というテーマをしつこいほど臨済先生が言うのは、そのような人間の性(さが)が原因だと思います。
頼りなく他者に盲従するような態度なら、まず見込みはない。
臨済先生、かなりはっきりと断定されました。私の貧弱な瞑想体験から言っても、確かにこのようなことはあると思います。坐禅にせよ、瞑想教室にせよ、何かを習いにきているような態度の人がいます。「習うのがなぜダメなの?」と思われる向きもあるかと思います。まあ、最初は習う感じでいいのかもしれません。
しかし、本当に仏教の本質を理解したいと思うのなら、習う態度では不可能です。なぜなら、仏教の世界観は俗世間の世界観をひっくり返したようなものだからです。ここではこの問題に深入りしませんが、ひとつだけ例を挙げておきます。
無我は仏教の基本命題です。しかし、俗世間は有我を基に設計されています。「私は無我ですから、税金は払いません」というわけにはいかないのです。俗世間のルールは有我で、親も学校も社会も国も、有我であることを推奨し、それを前提に設計されているのです。そしてその命題は、何ら吟味されないまま世代から世代へ、受け継がれていきます。私たちは疑問を感じないまま、それを受け入れています。
仏教は無我が真実だと主張します。俗世間にどっぷり浸かっているいる私たちは、有我の感覚が支配的です。有我から無我へのシフトは、ちょっと考えてみるだけでも大変です。それは自分という存在を徹底的に見直す作業が必要だからです。習う態度ではなく、探究する態度で臨まなければ間に合いません。
随処(ずいしょ)に主と作(な)れば、立処皆(りっしょみ)な真なり。
あらゆる場面で主(即今・真我)となれば、実に皆これ真となる。
読み下し文と私訳です。これは有名な禅語です。
ただ、この主という言葉も誤解を招きます。これは「主体的であれ」とか「主人公となれ」とかいう意味ではありません。そのような意味で解釈すると、「大勢の人の中での自分の立ち位置」という印象になります。
そうではありません。一人でいても、主であることは可能です。なぜなら、「主になる」というのは、意識を即今に置いておくということだからです。決して人間関係の中において「主であれ」という意味ではないのです。「即今に対して主であれ。主を放棄して境に従って行くではないぞ」ということです。
それだから「即今を生きていれば、そこに間違いはない」という意味です。
このことを逆方向から考えてみましょう。その方がわかりやすいかもしれません。つまり、真の逆、「立処皆偽なり」の状態を検討してみましょう。偽の状態というのは、「なんだかわからないけどこれじゃない」という感覚です。今の自分の状態に違和感を感じています。そして、今此処ではない何処かを求めます。この状況は大変苦しいのです。思考とそれに伴う感情が渦巻いています。これが偽の状態です。
何をしているかは真偽に関係はありません。受験勉強していても「気もそぞろ」であれば偽の状態です。動画を見て大笑いしていても「楽しめて」いれば真の状態です。
偽の状態への対処法は、今此処に集中してみることです。つまり即今を生きることです。一切の思考が停止すれば(なかなか難しいことですが)、そこに苦しみはありません。その状態が「立処皆真なり」の状態です。一度お確かめください。
但有(あらゆ)る来者は、皆な受くることを得(え)ざれ。
外からくる者(現象世界)に巻き込まれてはならぬ。
来者と擬人化して語られていますが、これは人だけでなく「すべての対象物」という意味です。眼耳鼻舌身意で認識するすべてです。皮膚の外にあるものだけでなく、皮膚の内側にある思考・感覚・感情も含みます。それらすべてから距離を保ち、巻き込まれずにあれ、という意味です。
思考・感覚・感情があっても、それはOKです。それらは「観察されている」状態だからです。思考・感覚・感情があるにもかかわらず「観察されていない状態」、つまり、それらに耽溺(たんでき)している状態がNGなのです。
但(た)だ能(よ)く念を息(や)めよ、更に外に求むること莫(なか)れ。
ただ、思念が自然に止まるように工夫せよ。外に向かって求めていくでない。
瞑想修行の勘所が述べられています。禅の文献は、えてして修行の果実ばかりを言い立てる傾向があって、未悟の人間はイライラさせられますが、このような言説に出会うと、♡いいね!と言いたくなります。しかし、端的すぎて補足しないとよくわからないのが、難といえば難です。
修行の方向として、「思念(思考)が止む方へ」というのは正しいです。しかし、「思念(思考)が止むようにする」ことは間違いです。「止むようにする」というコントロールの意図が、もう一つの思考だからです。火で火を消すことはできません。
では「どうすればいいのか」という疑問が起こります。でも、待ってください。「どうすればいいのか」という疑問も思考ですね。このように、堂々巡りしてしまうのが、この修行の困難さです。このことは、わかっておいた方が絶対にいいです。そうでないと、間違ったやり方で精進してしまう可能性があります。
私はこの修行を「自転車に乗ることを学ぶようだ」と思いました。自転車に乗れるようになるには、とにかく自転車にまたがって道を走ってみるしかない。
最初は何度も転んで、痛い思いをします。そのうち、フッと二輪で走行する感覚に出会います。でも、また転びそうになる。しかし、諦めずにそれを続けていると、持続的に乗れるようになり、最後には楽しくなります。そして、乗れるようになったら「乗れるための工夫」は必要なくなるので、忘れてしまいます。教える必要が生まれるまでは。
それと同じく、瞑想修行もいくつかのヒント、アドバイス、コツを言えることはあっても、最終的には「何度も失敗して、自分でコツを掴んでください」と言うしかありません。
また、原文にはありませんが、思念を止めるためには、思念のことをよく知る必要があります。「思念を止める」前に必要なことは「思念をよく知る」ことです。これをしっかりやれば、方向はなんとなくわかってきます。やみくもに「思考を止めよう」としても効果はありません。かえって酷くなる可能性だってあります。ご注意ください。
意識は外に向かっていく傾向があります。放っておくと外に向かいます。遊びに出かけたがります。心の観察によって、そのことをよく知り、心の位置を観察に留めておくことが肝要です。それを持続していくと、観察の母体ができ上がり、さらに観察を続けていくと、その位置がさらに深い所にできてくる・・・。
現象(思考・感覚・感情)との距離が広がるような感じで、それに巻き込まれることが少なくなっていく・・・。これは私の場合で、皆さんのケースとは多少ずれるかもしれませんが、参考にしてください。
物来たらば即ち照らせ。你は但だ現今用うる底(てい)を信ぜよ、一箇(いっこ)の事も也(ま)た無し。
何かが起こったら、すぐにそれに気づけ。只今即今のはたらきを信じよ。何事も起こってはいないのだ。
珍しく臨済先生が観察に触れています。テーラワーダ仏教では心の観察が強調されますが、禅ではほとんど言われることがありません。それが私には不思議なのです。それで仏教がわかってくるのだろうか、と。あるいは、禅は別のやり方をしたのかもしれない、とも思います。
無門関の禅箴(ぜんしん・禅の戒め)では次のような文があります。
「念念即覚は精魂を弄(ろう)するの漢」
意味は「思念が起こったら、すぐにそれに気づけというような男は、精神を愚弄する奴だ」
この言説によれば、臨済先生は精神を愚弄する奴、ということになってしまいます。えてして禅は、刺激的な語法を使いたがります。後世の人間はそこを考慮して読み解かないと、誤解を招くことになりかねません。私の意見は、すでに何度も繰り返したように「仏教修行に観察は不可欠である」というものです。観察なくして仏教なし、と言い切ってもいいと思います。
即今も大事な要素です。即今であることが観察を絶やさないことにつながります。即今に留まることを怠ると、思考に耽る、現象世界に巻き込まれることが起こっています。
思考や現象世界に耽る、巻き込まれる状態が「事が起こっている」状態です。即今を保ち、耽る、巻き込まれる状態がないのが「何事も起こっていない」状態、すなわち「無事」なのです。
長くなってしまいました。今回はこの辺で。また、お会いしましょう。