【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆16
こんにちは!
今回は、文殊、普賢、観音菩薩が登場します。
①読み下し文
山僧が見処に約せば、嫌う底(てい)の法勿(な)し。你(なんじ)若(も)し聖を愛すれば、聖とは聖の名なり。
一般の学人有って、五台山裏に向(お)いて文殊を求む。早く錯(あやま)り了(おわ)れり。五台山には文殊無し。
你、文殊を識(し)らんと欲するや。祇(た)だ你目前の用処、始終不異(しじゅうふい)、処処不疑(しょしょふぎ)なる、此箇(これ)は是れ活文殊なり。
你が一念心の無差別光は、処処総(す)べて是れ真の普賢なり。你が一念心の自ら能(よ)く縛(ばく)を解いて随処に解脱する、此(これ)は是れ観音三昧の法なり。
互(たがい)に主伴(しゅはん)と為(な)って、出(い)づるときは則(すなわ)ち一時に出づ。一即三、三即一なり。是(かく)の如く解得(げとく)して、始めて看経(かんきょう)するに好(よ)し。
②私訳
ワシの見方はつまり、「好き嫌いなく」ということだ。
お前がもし聖を愛すれば、それは聖という名を愛しているのだ。
世間の学僧は、五台山に文殊菩薩がいると思っている。それは間違いだ。五台山に文殊菩薩はいない。諸君は文殊菩薩を知りたいと思うか。
諸君を通じてはたらいている、不変で、すべてにおいて疑いようがないもの、これが活きた文殊菩薩だ。
諸君の心、つまり差別することのない光が、あらゆる場所で真の普賢菩薩だ。
諸君の心、つまり自ら束縛を解いて、そこから脱しようとするもの、それが観音菩薩のはたらきなのだ。
これら三つの菩薩が主となり従となって(諸君を導く)、その現れは同時で、独(ひと)りで三人、三人で独りだ。
このようにわかったなら、初めて経典を読むがよい。
現場検証及び解説
好き嫌いは、思考のなせる業です。思考を差し挟まなければ、好悪は起こりません。好悪があるうちは思考がはたらいています。思考は個我です。好き嫌いは、そういう意味では個我の存在を測るバロメーターの役割を果たします。仏教は個我の消滅を目指しています。臨済先生が「好悪なし」とおっしゃるのは当然です。
五台山とは文殊菩薩の聖地で、古くからある霊山だそうです。それを臨済先生は否定します。そんなところに文殊菩薩はいないぞ、と言います。では、どこに文殊菩薩はいるのでしょうか。
諸君を通じてはたらいている、不変で、すべてにおいて疑いようがないもの、これが活きた文殊菩薩だ。
ということです。
私たちを通じてはたらいている、識のエネルギーのようなもの、それが活きた文殊菩薩の本当の姿なのです。禅仏教では仏性、あるいは本来の面目などと名付けています。ただ、無とか空と呼ばれることもあります。ヒンズー教では真我と言っています。非二元の教えでは、ワンネス。キリスト教では神です。一(いつ)なるもの、ということもありますね。すべて同じことを指しています。
覚者はソレを直に知った人です。それは言葉では表現不可能なものです。しかし、未悟の人間はソレを知りたがります。覚者はやむをえず言語化します。最初はそれで伝わることもあったでしょうが、その言葉が使い回され新鮮さを失ってしまうと、別モノになってしまいます。言葉だけで、わかったような気になってしまい、かえって悪影響を及ぼします。言葉にも賞味期限を設けたほうがよさそうです。
文殊菩薩も、新鮮さを失った言葉のひとつです。臨済先生は、一度鮮度を失った言葉に、新たな命を吹き込もうとしています。不立文字を標榜しながらも、伝えるには言葉が必要です。古い言葉を引っ張り出してきて、なんとかソレを伝えようとしています。
しかし、文化的な影響なのでしょうが、文殊菩薩以外にも、普賢菩薩や観音菩薩を引っ張り出す必要はあったのでしょうか。 私は混乱を避ける意味で、できるだけソレを「真我」と呼ぶようにしています。
皆さんはどう思われるでしょうか。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。