【無門関】やさしい現代語訳・解説 第44則「芭蕉拄杖」

2023/10/03
 

 

こんにちは!

今回は、拄杖子(しゅじょうす)、杖(つえ)のことです。

 

①本則

芭蕉(ばしょう)和尚、衆に示して云く、「你(なんじ)に拄杖子(しゅじょうす)有らば、我你に拄杖子を与えん。你に拄杖子無くんば、我你が拄杖子を奪わん」

私訳

芭蕉和尚は衆僧たちに拄杖を示して言った。「お前に拄杖子があれば、ワシはお前に拄杖子を与えよう。お前に拄杖子がなければ、ワシはお前の拄杖子を奪ってやる」

 

②評唱

無門曰く。扶(たす)けては断橋(だんきょう)の水を過ぎ、伴(ともな)っては無月の村に帰る。若(も)し喚(よ)んで拄杖と作さば、地獄に入ること箭(や)の如くならん。

私訳

橋のない河を渡るのを助け、月のない夜、村に帰るのを助ける。これを拄杖などと呼べば、いっぺんに地獄行きだ。

 

③頌

諸方深與浅 都在掌握中 撐天幷拄地 随処振宗風

私訳

総方向に深く浅く、すべてはこの手の内にあり。天を支え地を支う。あらゆる場所にわが宗は栄える。

 

現場検証及び解説

【本則】

何度かこのシリーズで申し上げたように、無門関は論理的な理解を拒みます。しかし、イメージをもってこれを見ていくと、なんとなく「ははーん、そういうことか・・・」と解釈できます。もちろん、瞑想修行の実感が豊富にないと、なかなか難しいのですが。

今回も、理屈では歯が立たない話ですが、イメージ思考でなんとか解釈しましたので、それを披露いたします。

まず、拄杖子というのは、お年寄が使う杖のことです。垂直に立つというイメージがあります。これは即今を表しています。時空間という水平面に垂直に立つ即今を暗示しています。第三則の倶胝竪指(ぐていけんし)に登場する倶胝和尚は、「仏法とはなんですか?」と問われ、常に一本指を立てて見せました。あれも垂直軸(即今)を表したものです。

そのイメージで、本則をもう少し意訳してみましょう。

 

お前に拄杖子(即今)があれば、ワシも拄杖子(即今)で応じよう。お前に拄杖子(即今)がなければ、お前の拄杖子(偽物の即今)を奪ってしまおう。そして悟らせてやろう。

 

三番目の拄杖子までは、正真正銘の即今ですが、四番目の拄杖子は偽物の拄杖子です。自称即今人、観念的な即今(拄杖子)を握りしめている未悟の僧です。

芭蕉和尚は未悟の僧にこう言っています。「もしお前が、観念的な偽物の即今を握りしめて離さないなら、ワシはその観念を奪って、本物の即今をわからせてやろう」。

同じ言葉を違う意味で使うのは反則だと思いますが、禅はこういうことを平気でやります。ですから、論理的に解こうとせず、イメージで解釈するとうまくいくように思います。

 

【評唱】

無門先生は、杖と即今を掛けて表現します。川を渡るとき、月夜を歩くとき、杖は欠かせません。どこにでも御供する頼りになる道具です。

また即今も、どこにでも御供します。今も昔もこれからも、またどんな場所にも即今があります。確かめてみてください。あなたの人生で、「即今でなかったこと」がありますか? それが仏性です。それが本来の面目です。何も難しいことはありません。妄想がそれに気づくことを邪魔しているだけです。

「これを拄杖などと呼べば」云々というのは、観念的になれば、その先は地獄だぞ、ということです。確かに観念的になればなるほど、人生は地獄化していきます。考えるのはいいことではありません。それは、人間の能力のごく一部だということを知ってください。瞑想修行をすれば、そのことがわかってきます。

 

【頌】

この頌の全体が、即今のことです。どちらを向いても即今があり、常時即今があります。ご自身で確かめてみてください。「この手の内にあり」・・・まさに一番身近で頼りになるものかもしれません、思考が邪魔しなければ。

わが宗というのは禅宗のことでしょう。禅宗に限らず、誰でも即今をしっかりと知れば、心理的に落ち着くことは確かです。お互いに頑張って修行いたしましょう。今回はこの辺で。

 

第45則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第45則「他是阿誰」

 

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