【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆39

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、なぜ私たちは「ここではないどこか」を探し続けるのか?

 

①読み下し文

問う、如何(いか)なるか是れ西来意(せいらいい)。

師云く、若(も)し意有らば自求不了(じぐふりょう)。

云く、既に意無くんば、云何(いかん)が二祖法を得たる。

師云く、得というは是れ不得なり。

云く、既若(もし)不得ならば、云何が是れ不得底の意。

師云く、你(なんじ)が一切処の向って馳求(ちぐ)の心歇(や)むこと能(あたわ)ざるが為(ため)なり。所以(ゆえ)に祖師言う、咄哉丈夫(とつかなじょうぶ)、頭(こうべ)を将(も)って頭を覓(もと)むと。你言下に便(すなわ)ち自ら回光返照(えこうへんしょう)して、更(さら)に別に求めず、心身の租仏と別ならざるを知って、当下(とうげ)に無事なるを、方(まさ)に得法(とくほう)と名づく。

大徳、山僧今時、事已(や)むことを獲(え)ず、話度(わたく)して許多(そこばく)の不才浄(ふさいじょう)を説き出(い)だす。

你且(よ)く錯(あやま)ること莫(なか)れ。我が見処(けんじょ)に拠(よ)らば、実に許多般(そこばくはん)の道理無し。用いんと要(ほっ)せば便(すなわ)ち用い、用いざれば便ち休(や)む。

 

②私訳

僧が問うた。「達磨大師がインドからやってきた意図は何ですか」

臨済禅師は次のように言われた。

「もし達磨大師に意図があったなら、自分を救うことさえできなかっただろう」

 

僧が問うた。「達磨大師に意図がないなら、どうして二祖は法を得たのですか」。

臨済禅師は言われた。

「『得た』とあなたは言うが『得ていない』のだ」

 

また、僧は問うた。「もし『得ていない』というなら『何が得られていない』のか、その訳を説明してください」

臨済禅師は言われた。

「あなたが、そのような質問をするのは、常に仏を求める心を外に向かわせ、それを止めることが出来ずにいるからだ。だから、祖師はこう言っただろう。『いっぱしの男が自分の頭を探し回るようなことはするな』と。その言葉をあなたが聞いたなら、すぐさま観察を内側に向けるだろう。そうすれば、仏法を外に向かって求めず、自分の身心は祖仏と全く同じだと知り、そのままで無事であることを知るだろう。これが本当の得法(とくほう)なのだ。

諸君、ワシは今日、やむをえず、説かなくてもいいことを説いてしまったが、勘違いしてはいかん。

ワシの考えによれば、仏法に込み入った道理はない。思考はたらかせようと思えば、はたらかせればよいし、はたらかさなければ、それはやがて止む。

 

現場検証及び解説

 

珍しく臨済先生が学僧の質問に逐一答えています。が、学僧の質問にまっすぐに答えずに、少しずつずらせて答えています。だから、質疑応答がかみ合っていないように感じ、ちぐはぐな印象を与えています。

このような禅のテキストの難解な応答に、深い意味を見いだす修行者もいます。しかし、私のようにストレスを感じ、むしろ不愉快になる人もなかにはいるでしょう。そのような場合、たいていは禅仏教から離れ、「あれは訳の分からんものだ」と決めつけてしまうのですが、私は禅仏教のテキストから離れ、瞑想修行を続けながら、他の教えを勉強してみたのです。

まず、テーラワーダ仏教。スマナサーラ長老の著書を読みました。サンガ新書で法話集がたくさん出ています。あれを買って次々に読みました。

禅仏教のテキストとどう違ったか。まず、わかりやすい。本に書いてある内容がスラスラわかるということは、こんなに気持ちのいいものかと思いました。もちろん、瞑想修行はそれほど進んでいませんでしたから、実感を伴うとまではいきませんでしたが。

もちろん難しいと思う所は多々ありましたし、「これはどういうことだろう?」という疑問点もありました。でも、そういうことも含めて、スマナサーラ長老の著書は私にとって抜群に面白かったのです。仏教ってこんなに面白いものだったのか!と開眼する思いでした。

以来「自分が面白いと思うものに、素直についていけば、物事はわかってくるんだ」と確信し、「難解なものに取り付いて、眉間にシワを寄せてする勉強」におさらばしました。

YouTubeなどでも情報を得て、ヒンズー教の覚者や、非二元の覚者の存在も知りました。動画だけでなく、本も読んでみました。ヒンズー教や非二元の覚者は物事をストレートに言います。だから、余計な忖度(そんたく)は不要になります。

「本当のあなたは、自分がそうだと思っている、その肉体精神機構とは違うのだよ」と言われれば、「変な話だなあ、すぐには受け入れがたいことだなあ」とは思いますが、言われている意味はすぐにわかります。

しかし、禅仏教の場合は真実をストレートに言おうとはしません。たとえ話も多い。特に自然に託して表現する。真理を正確に伝えるよりも、表現の奇抜さを追及します。相手に伝わるかどうかは、二の次のようにさえ感じられます。

さて、私も禅仏教に苦労させられましたから、悪口を言い出すとキリがありません。また、取って付けたようになりますが、臨済先生が仏教の高い境地に達せられていること、その表現の妙味には敬意をもって接しているつもりです。

漢文の素養にも乏しく、修行も中途半端ですから、間違ったことを言っている可能性もあるかと思います。ご批判覚悟の私訳、解説です。何かありましたら、ご指摘下されば、ありがたく存じます。

 

臨済禅師は次のように言われた。「もし達磨大師に意図があったなら、自分を救うことさえできなかっただろう」

質問僧は「祖師西来の意」を問うています。直訳すると「達磨大師が西から中国にやって来た意図は何か」ですが、普通これは「仏教の根本義」を問いただすお決まりのフレーズだったらしいです。

しかし、臨済先生はそれにストレートには答えていません。質問僧からすれば、何を言っているのかさっぱりわからない答えです。

これは「意」という語にポイントがあります。質問僧の「意」は私訳したように「意図」として意味していますが、臨済先生はこの「意」を仏教の認識の窓「眼耳鼻舌身意」の「意」としてとらえています。「意」というのは思考のことです。ですから、上記の臨済先生の答えをもう少し意訳すると、こうなります。

「もし達磨大師に思考なんてもんがあったら、悟りどころじゃなく、未だ迷いの世界にいて、自分さえ救えなかったろうよ」

質問僧の質問に対してまっすぐには答えていませんね。ずらせているというか、洒落(しゃれ)のつもりなのか。この答に対して、面白いと感じるか、ムカッとくるかは、皆さんにお任せするとして、次に移りましょう。

 

臨済禅師は言われた。「『得た』とあなたは言うが『得ていない』のだ」

これもわけわかりませんね。二祖というのは、慧可(えか)和尚のことで、達磨大師に求道の強い意志を示すために、自分の腕を切って持って行った人です。すごいですね。

また「不安でしょうがない。何とかしてください」と達磨大師に切望し、「その不安をここに持って来い」と言われ、探したが持って来ることができず、「ほれみろ、不安など幻のようなものじゃないか、俺はお前を安心させてやったぞ」と言われた人です。で、達磨大師の法を継いで第二祖となった方です。

ここでは「得た」という言葉がキーワードです。仏法は「得られるもの」ではありません。「元々自分に備わっているもの」を「発見」するだけです。ですから、達磨大師から慧能は「仏法の教え」をほいよと渡されて、それを「得た」という話ではないのです。

達磨大師とのやり取りの中で、自分で自分に備わっている仏法に気づいただけです。「法を継ぐ」という言い方も厳密に言えば、誤解を生む言葉だと思います。そのことを臨済先生は指摘したのです。しかし、この応答も学僧の質問をずらしていますし、その結果わかりづらいものになっています。

この解説を聞いて、面白いと思うか、ムカッとするかは、あなた次第です。

 

また、僧は問うた。「もし『得ていない』というなら『何が得られていない』のか、その訳を説明してください」

この僧の方がまともだし、臨済先生の言説の方が奇妙で理屈に合わないものに思われます。臨済先生は真実を言っているのですが、妙にひねった伝え方をしているので、わけのわからないものになっています。高校野球児のバッティング練習に大谷翔平がスライダーを投げこんでいるようなものです。

 

「あなたが、そのような質問をするのは、常に仏を求める心を外に向かわせ、それを止めることが出来ずにいるからだ。だから、祖師はこう言っただろう。『いっぱしの男が自分の頭を探し回るようなことはするな』

ここからの臨済先生は真面目に仏法について語っています。要するに「祖師方の言葉を追って、外に仏法を探し求めることは無駄だからやめろ。心を観察することでソレを知れば、祖師方と自分たちは同じだということがわかる」と言っています。

「自分の頭を探す」と似た比喩は、ヒンズー教や非二元の教えにもあります。「首にかけているネックレスを探す」「かけている眼鏡を探す」「自分の腰掛けている椅子の中に宝が入っているのに物乞いしている」などなど。

こういうのもありますね。嵐の夜10人の男たちが激流の河を渡ります。無事に渡り終え、念のため点呼を取るのですが、何度やっても9人しかいません。「仲間を1人失ってしまった!」と皆で嘆き悲しんでいると、そこに人が通りがかり、訳を尋ねます。そしてすぐに事情を察し笑い出します。「君たち、人数を数える前に、自分自身を勘定に入れないとダメだよ。自分を数えないから、1人足りなくなるんだ(笑)」と。

白隠禅師坐禅和讃にも次のような一句があります。

「長者の家の子となりて、貧里(ひんり)に迷うに異ならず」

 

ただ、仏法に限らず「心を外に向かわせない」ことは大変困難なことす。最近の私は修行三昧が可能な結構なご身分であるにもかかわらず、寄り道したくなってしまいます。図書館に行ってみたり、古本屋を覗いてみたり・・・。覚醒に向かってまっしぐら、とはいきません。これは自分の中に「抵抗と模索」(ルパート・スパイラ)があるからです。「今の状態が不満、なぜか物足りない。だから、その何かを求めて彷徨(さまよ)う」のです。皆さんも経験あるでしょう。この欲動がやまない限りは、仏法を会得したとはいえないのです。

しかし、これは人間全般に言えることです。曹洞宗の僧侶、藤田一照老師がよくパスカルの「パンセ」から引用される一文があります。

「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだ」

「ここではないどこか」「今の私でない他の私」を、なぜ私たちは探し続けるのでしょうか?

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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