瞑想知恵袋 その19【「自由への道」(アジャシャンティ著  ナチュラルスピリット)精読】②

2024/06/01
 

 

こんにちは!

それでは「自由への道」を一緒に読んでまいりましょう。

私は出版社、新刊書店、古本屋の世界を渡り歩いてきた者です。そのため、書籍関係者の利益にはナイーブにならざるをえません。ましてや、ディスプレイに押され気味で、紙の本が元気のない今日です。そのあたりを配慮して、できるだけ本文からの引用は簡潔に、私のコメントを多めにと考えています。

このシリーズを読んで、本書を読んだ気になってしまったら、出版社をはじめ業界のみなさんにご迷惑をおかけすることになります。本文はゴチック体で引用し、私のコメントは普通の書体で書いていくことにします。

 

今回は、「序文」を取り上げます。

「序文」より

この本は、(略)あなたが想像している人物から、本当の自分という存在へ目覚めるためのガイドです。

ヒンズー教の覚者、ニサルガダッタ・マハラジが、まだ未悟だった頃の話。

マハラジは最初、友人に連れられて、渋々ヒンズー教の覚者の元に行ったのでした。後にマハラジの師となるその人は、マハラジの顔を見るなりこう言いました。

「あなたの本当の姿は、あなたが思っている者とは違うものだ」と。そして、マハラジは素直にその言葉を信じた、と言います。気づき、あるいは腑に落ちること、があったのでしょう。その後その師に付き、師が一年足らずでなくなった後は、各地を遍歴して修行をし、ついに悟ったのでした。

 

「あなたが想像している人物」というのは個人的な我のことです。私は短く「個我」と表記します。では「本当の自分という存在」とはなんでしょうか。私は「真我」と呼んでいます。アジャシャンティは本書の中で、「真我」という言葉は使いません。代わりに「リアリティ」という言葉を使ってソレを表現しています。

では、「個我」のことはどう表現しているかというと、マインド(条件付けられた思考)とか、エゴと表現しています。一般の方々には、信じがたいことでしょうが、この個我=マインド=エゴというのが幻想なのです。テーラワーダ仏教の指導者、スマナサーラ長老の言葉を使わせてもらうと、個我は「捏造されたもの」なのです。

 

以前一緒に坐禅していた男性がこう言いました。「僕とあなたは考え方が違う。したがって、僕とあなたは違う人物である」と。これは個我の存在を肯定した発言です。そのときは、「そうか、君はそう思っているんだね・・・」としか言えませんでしたが、今ならこう言います。

「考え方が自分だというなら、考え方(あるいは考え)が変わったら別人になるのかい?」と。

瞑想していると気づくのですが、考えなんていうものは、コロコロ変わるものです。考え=自分だというのなら、自分ほど不確かなものはありません。考え=自分という間違った認識は、おそらくデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という命題と、それに則った近代教育に問題があるのです。「デカルトを批判するなんて、お前そんなに偉いのか」という声が聞こえてきそうです。

しかし、デカルト=哲学の偉人➡それを安易に批判する奴➡そんな奴はバカで傲慢な奴・・・という思考のプロセスこそが、アジャシャンティの言う「マインド=条件付けられた思考」であり、その思考がリアリティ(真我)を知ることから遠ざけ、妄想の世界を維持していくのです。

たとえば、私はデカルトに問いたい。「思わないときは如何!」人間は考えているばかりではありません。何も考えていないときもあります。思考は人間の認識作用の一部でしかありません。それなのに思考を「在ること」の中心に据えてしまったのが、そもそもの間違いです。思考がないときは「I AM =存在している」という感覚があります。そのとき、私たちは、真我に近いところにいるのです。

 

以上、個我は心理的な要素の寄せ集めで、それは本当の自分ではありえない、という話をしました。もう一つ、真我を認識するのを邪魔しているものがあります。肉体です。「肉体こそが自分で、手で触れられる身近な存在、これがある限り、俺はこの個体しか認めない。真我などという実態のハッキリしないものを認めるわけにはいかない」

お説ごもっとも。私も真我の存在を直に確かめたわけではないので、この点については歯切れが悪くなります。しかし、これだけは言えます。

私たちは一日のうちに何度か排泄し、何度か飲料水・食物を取り入れます。そうでないと、生きていけません。そうすると、細胞レベルでも新陳代謝が起こっているわけで、厳密に言えば日々別人なのではないでしょうか。

生物学者に言わせると、何年かで細胞は総入れ替えになるそうです。肉体が自分だとすれば、少なくとも何年後かには別人になっているということになります。

一般の人びとは、肉体は自分の所有物で、自分の思い通りになる、と思っていますが、それは間違いです。もし肉体が、自分の思い通りになるのなら、死も免れるはずですが、そうはなりません。生き物の死亡率は100%なのです。

そのように考えていくと、自分というもの、個我というものは私たちが思っている程、確かなものではない、ということがわかってきます。特に瞑想修行をして、心の観察を続ければ容易に「あなたが想像している人物」が実態のないものだと、わかってきます。また、確固たる固体(あるいは個体)ではなく、流動的なものであることが、理解できます。

 

この教えの効果を発揮させるには、最善の努力をしてそれを生かしていかなくてはなりません。

こういうところが、私がアジャシャンティに信頼を置く点です。

たとえば、教えと行動が違っているようでは、覚者とは言えません。普通の人です。覚者は倫理的、道徳的にも高いものをもつはずです。また覚者と呼ばれる人の中には、教えと行動に齟齬があることに無自覚な人もいます。こういう人を「偽グル」と言います。

もっともらしい言葉は誰にでも言えます。しかし、立派な行動は誰にでもできるわけではありません。みなさんそのポイントをよく見て、騙されないように、気をつけましょう。

 

上の文章でアジャシャンティが言わんとしているのは、こういうことでしょう。

教えはそれを暗記して他人に吹聴し、優越感を感じるためにあるのではありません。教えは単なる学問ではない。教えが理解できたなら、そこでストップせずに、それを生活の中で実行していきなさい。

これは「言うは易く行うは難し」です。しかし、それをアジャシャンティはそれをやれと言う。

 

私は常々理解には少なくとも3つの段階があると思っています。

① 言葉の上の理解。言っていることはとりあえずわかる、という段階。これも大切なことではありますが、しばしば暗記するにとどまり、身になりません。

② 納得。腑に落ちる理解です。「なるほど、そうだなあ」という感情を伴う理解です。腹に落ちる理解なので、①よりは行動に現れる確率が高いでしょう。

③ 行動に現れる理解。この段階では言葉は消え、理解というような理屈っぽいものすらなく、何のためらいもなく自然にそうします。さっと行動し、行動したことすら、すぐに忘れてしまいます。これこそが身についた理解だと思います。徳と言ってもいいのかもしれません。

 

アジャシャンティは教えをとりあえず理解した後も、教えを人生の中で生かしていく方向に努力していきなさい、と訴えます。

先に言いましたように、これは難しいことではありますが、それなしには仏教は有り得ない。口先ばかりの仏教では無意味です。だいたいそういう言説を、仏教と称して喧伝してもらっては困ります。アジャシャンティはその点、確かな仏教の手触りがあります。

どうでしょうか。最初から厳しいことを言い過ぎたかもしれません。ただ仏教は、学べば簡単に癒されたり、度胸がついたり、というようなものではなく、習得するには、大変厳しいものがあるのだと、私は感じていますし、アジャシャンティの言説を読むにつけ、その思いを強くするのです。

次号に続きます。

 

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