【臨済録】やさしい現代語訳・解説 上堂4

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、そんなのカッチカチのウンコやろが!

 

①読み下し文

上堂(じょうどう)。云(いわ)く、赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(いちむい)の真人(しんにん)有って、常に汝等諸人(なんじらしょにん)の面門(めんもん)より出入(しゅつにゅう)す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。

時に僧有り、出(い)でて問う、如何(いか)なるか是(こ)れ無位の真人。

師、禅牀(ぜんじょう)を下(くだ)って把住(はじゅう)して云く、道(い)え、道え。

其(そ)の僧擬議(ぎぎ)す。

師托開(たっかい)して、無位の真人是れ什麼(なん)の乾屎橛(かんしけつ)ぞ、と云って便(すなわ)ち方丈(ほうじょう)に帰る。

 

②私訳

臨済禅師は上堂して言った。

「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出入りしている。未だこの事を確認していないものは、さあ看よ! 看よ!」

ある僧が前に出て問うた。

「無位の真人とはどういうものですか」

禅師は演壇の椅子から降りて、その僧の胸倉(むなぐら)を掴(つか)んで言った。

「言え! 言え!」

その僧は思案した。禅師は僧を突き放して言った。

「お前の言う無位の真人は、カッチカチの糞の塊(かたまり)だ」と言って、そのまま部屋に帰って行った。

 

現場検証及び解説

 

ご高齢にもかかわらず、実に激しい法話(?)です。この項では「無位の真人」がキーワードです。これがわかれば、全体も会話もわかります。

「無位の真人」とは、私が「真我=仏性=本来の面目」と表現するものと同じです。非二元の教えでは「ワンネス」と言うこともあります。私たちを生かしている生命エネルギーのようなものととらえても、当たらぬとも遠からず、です。ヒンズー教の覚者、ラメッシ・バルセカールは、電気製品と電気にたとえて説明しています。

電気製品が肉体(赤肉団)、電気が生命エネルギーのようなもの、即ち私たちが問題にしている「真我=仏性=本来の面目」です。それを臨済先生は「看よ」というわけです。因みに「看」は看護師の「看」ですね。「看」には「注意して見る。見守る」の意味があります。

ソレは私たち自身で、なおかつ厄介なことに「眼耳鼻舌身意」ではとらえられないモノです。科学は「眼耳鼻舌身意」でとらえたものしか扱えません。そのため、ソレは科学では発見できないナニカなのです。覚者は「ソレをソレとして知る」という特殊な方法でソレを知ったため、私たちにソレを伝えようとします。

しかし、さらに厄介なことに、ソレは言葉では伝えられないのです。各自が直に「ソレをソレとして知る」体験をしなければならない。ということは「法話(言葉)では法を伝えることはできない」ことになります。さらに言えば「人から人へ伝える」ことさえ成り立たない、のです。

覚者、知った者は、ソレが大変重要なものであることを知りますので、「他人にもわからせたい」がために、「伝えることは不可能」と知りつつ、何かアクションを起こさずにはいられません。あるいは、自分からそうしたくなくても、他人が教えを請いに来ます。インドの聖者、ラマナ・マハルシの場合のように。

臨済先生の言葉は、学僧が覚醒するための触媒(しょくばい)、あるいはきっかけの提供なのです。臨済先生の法話が度が過ぎるほど激しく、端的であるのもそのせいです。

胸倉をつかまれ、「言え! 言え!」と迫られる刹那、学僧が「あっ!」という体験をし、ソレを感じることができれば成功です。しかし残念ながら、学僧は臨済先生の言葉を追いかけ、考えに落ちてしまいました。覚醒の機会は失われました。

若き頃の臨済先生も、黄檗禅師に三度問い、三度打たれました。わけがわからず、大愚禅師の所に行かされ、事情を言うと、大愚は「お前というやつは・・・黄檗がこれほど親切に法を教えてくれているのに・・・」と言われ、その時点で「ハッ!」と気づき覚醒したのでした。

後に黄檗禅師の打擲(ちょうちゃく)を、臨済先生は懐かしく思い出しています。もちろん、それが覚醒に繋(つな)がったから、そう思えたのでしょうが。

胸倉を掴まれた学僧が、臨済先生を恨まなければ良いのですが。これは臨済先生の親切なのです。

 

「お前の言う無位の真人は、カッチカチの糞の塊(かたまり)だ」

気になる一文です(笑)。

臨済先生は、私たち自身である無位の真人(身分の無い人、名無しの権兵衛)を看よ、と言います。それは、生命エネルギーのようなもので、眼耳鼻舌身意ではとらえられないもの、直に看るしか看ようのないもの、です。それはきっと概念以前のすこぶる生々しいものではないでしょうか。

言ってみれば、出来立てほやほやの、湯気の立っているようなウンコのようなもの、です。臨済先生にしてみれば、ソレを看てほしかった。しかし、学僧な「え、何? 無位の真人てなんだ」と頭の中でひねくり回した後に、つまり概念化した無位の真人について質問します。

臨済先生にしてみれば、湯気のたっているウンコに近づき、ギュと握ってほしかったのに、この学僧は臭いも届かないような数メートル脇に立って、ソレについて尋ねている。そんなものは臨済先生が言う無位の真人とはほど遠いものです。

一日を経たウンコはカッチカチに乾燥します。学僧が言う無位の真人は、臨済先生に言わせれば「遅すぎる、離れている、生々しさがない、間接的である」のです。「オレは直接握れってんだよぉ!」というわけです。言葉の理解というものは、いつもそうなのです。

それにしても、もう少しエレガントな表現はできなかったのでしょうか。「お前は枯れた花を仏壇に飾るのか!」とか、どうでしょう? とかく、古代中国人の表現はえげつなくて、日本人にはどぎつ過ぎる感がありますね(笑)。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2023 All Rights Reserved.